ジュリー・ニクソン
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人目を気にせず、「個人的な質問」に答えることを嫌いながらも父に貢献するためにあらゆることをした[17]大統領執務室(英語版)で父と過ごすジュリー(1971年)

父が大統領を務めている間(1969年-74年)、ジュリーはホワイトハウスで児童の問題、環境、高齢者のためのスポークスパーソンとして活動した。彼女は障害を持つ子供を案内したり、母の代わりに行事に参加し、また外交政策にも積極的に関心を持った。1971年キャロライナ・ケネディジョン・F・ケネディ・ジュニアがホワイトハウスを訪れた際は彼女とトリシアが案内役を引き受け、かつての寝室や大統領執務室(英語版)を見学させた[18]ジュリーとその母でファーストレディのパット・ニクソンと元ファーストレディのマミー・アイゼンハワー(1973年)

1971年、デイヴィッドがメイポート海軍補給基地重巡洋艦オールバニに配属されたのを機にフロリダ州アトランティックビーチ(英語版)に移った。その年の秋から彼女はアトランティックビーチ小学校の3年生を教える予定であったが、授業開始直前に足の指を骨折したことで断念した。夫妻は1973年までアトランティックビーチに住み続け、ビーチアベニューにある海辺のガレージ・アパートメントで大統領夫妻をもてなしたこともあった[19]

1973年から75年にかけて彼女は『サタデー・イブニング・ポスト』の副編集長を務め、その親会社であるカーティス出版の書籍部門の設立に貢献した。父の第一次政権の写真をおさめた『Eye On Nixon』を書いたのもこの時期である。

ウォーターゲート事件の報道とそれが大統領執務室にまで及ぶという疑惑が高まり始めた後、ジュリーは国内外の報道陣に取り上げられた。ジャーナリストのノーラ・エフロンは「ウォーターゲートの公聴会から数ヶ月で、違うかもしれないが実際には彼女(ジュリー)は父親のファーストレディになった」と評した[20]

「父親を世間に説明しようとする役割」[21]を引き受けたジュリーの公の父親擁護は1973年5月2日にウォルト・ディズニー・ワールドで始まった。彼女は全米で合計138回のインタビューに応えた。1973年7月4日、彼女は2人の記者に対し、父はウォーターゲート事件を受けて辞職を考えたが、家族の説得で思いとどまったと語った[20]。1974年5月4日、ジュリーとデイヴィッドはホワイトハウスのイーストガーデン(英語版)で記者会見を開き、彼女は大統領が「これを憲法上徹底的にやるつもり」であると発表した[20]。1974年8月9日正午前、ジュリーはホワイトハウスのスタッフに別れの演説をする父の後ろに立った。後にジュリーはそれは父にとって最も辛い瞬間だったと語った[20]
ホワイトハウス後の生活アイゼンハワーはジョージ・W・ブッシュ政権下でホワイトハウス・フェロー・プログラムの委員長を務めた。画像は2003年のクラスである。

ジュリーとデイヴィッドはペンシルベニア州バーウィン(英語版)に定住し、著書『Pat Nixon: The Untold Story』や『Going Home to Glory; A Memoir of Life with Dwight D. Eisenhower』を完成させた。また社会奉仕活動も盛んに行い、特に危険にさらされている若者の問題に関心を寄せた。彼女は20年以上にわたって若者が高校卒業後に最初に就職するのを支援する全国組織であるジョブズ・フォー・アメリカズ・グラデュエーツ(英語版)の理事を務めた。彼女はその市民的貢献が認められてディスティングィッシュド・ドーター・オブ・ペンシルベニアに選ばれた[22]。彼女はまたリチャード・ニクソン財団(英語版)の理事も務めている。2002年から2006年まで彼女は国内の最も優秀な若者のリーダーを育成するプログラムであるホワイトハウス・フェローシップに関する大統領委員会の委員長を務めた[23]

1993年6月22日に母が肺がんで亡くなる際は姉と父と共に母を看取った[24]。その4日後の1993年6月26日にはヨーバリンダにあるリチャード・ニクソン図書館(英語版)の敷地内で行われた母の葬儀に参列した。その10ヶ月後に父が亡くなる際には姉と共に父を看取った[25]。1994年4月27日にジュリーは父の葬儀に参列した[26]。父の死によって彼女と姉は父の日記、バインダー、テープなどを手にすることとなった[27]ロバート・M・ゲーツ国防長官にニクソン・センター特別功労賞を授与するジュリー・ニクソン・アイゼンハワー(2010年2月)

彼女は大統領を題材としたいくつかの映画に嫌悪感を示し、若い鑑賞者に「ゆがんだ歴史観」を与えるものであるとレッテルを貼った[28]。これは父の大統領時代を映画化したオリバー・ストーンの『ニクソン』にも及んだ[29][30]ウォルト・ディズニーの娘のダイアン・ディズニー・ミラーはジュリーとその姉に手紙を送り、ストーンが「あなたの家族、大統領任期、そしてアメリカの歴史に対して重大な不利益を与えた」と伝えた[31]

2001年、彼女は父が副大統領選挙に出馬している際に飼って1964年に死んだ犬のチェッカーズの遺体を掘り起こすことに興味を示した。彼女は遺体をニクソン・大統領図書・博物館に移すことを希望した[32]。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}2013年9月にサザン・アーカンソー大学(英語版)で講演するジュリー・ニクソン・アイゼンハワー(上段)。学生のために自著にサインをするアイゼンハワー(下段)。

ジュリーと姉はベベ・レボゾ(英語版)がリチャード・ニクソン図書館・生家財団のために残した約1900万ドルをめぐって法廷闘争を行った。トリシアは身内の団体に管理させることを希望したのに対し、ジュリーは図書館の理事会に管理させることを望んだ[33]。闘争中に2人が経験していた緊張関係についてジュリーは「とても悲しいことだと思う」[34]、「私は姉をとても愛しているのでとても心が痛む」と表明した[35]。最終的に訴訟は双方が納得する形で解決した[36]

彼女の一番の願いはニクソン図書館が国立公文書記録管理局が管理する大統領図書館のシステムに加わることであった:

お金のために苦しむのは間違っています。父はそのシステムに加わるべきです。父が外部にある限り、歴史家は父をより否定的に見続けるでしょう。否定的な意見は常にありますが、父は大統領の連続性の一部であるべきです[34]

彼女の提唱もあってニクソン図書館は2007年7月に国立公文書記録管理局のシステムの一部となった[37]

彼女の家族が共和党を支援してきた歴史があるにもかかわらず、ジュリーは2008年の民主党予備選挙でヒラリー・クリントンと争っていたバラク・オバマに2300ドルを寄付した[38][39]


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