ジュリー・アンドリュース
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(It must have been ghastly, but it seemed to go down all right.)」[14][15]

ジュリー・アンドリュースは継父が彼女を、ロンドンにあるモス・エンパイヤーズ(英語版)の有名なコンサート会場などを管理していたヴァル・パーネル(英語版)に紹介し[16]、一気に脚光を浴びた。1947年10月22日にアンドリュースはロンドンのヒッポドローム(英語版)でオペラ『ミニョン』の中の難しいアリアである『私はティタニア』を『Starlight Roof 』というミュージカルのレビューで歌い、プロのソロデビューを果たした。彼女はヒッポドロームで1年間公演する。.[8][17]アンドリュースは『Starlight Roof 』について「そこには、風船で動物を作った、素晴らしいアメリカ人のコメディアンのウォーリー・ボーグ(英語版)がいました。彼は『客席にいる小さな女の子か男の子で誰かこれを欲しい人はいるかい』と聞きました。そこで私は急いでステージに上がり、『私にひとつください。』と言うと、彼は私に話し掛けてきて、私が歌いますと言うと・・・幸いなことにショーはいきなり静かになりました。それだけではなく、観客は夢中になって聞いてくれました。(There was this wonderful American person and comedian, Wally Boag, who made balloon animals. He would say, 'Is there any little girl or boy in the audience who would like one of these?' And I would rush up onstage and say, 'I'd like one, please.' And then he would chat to me and I'd tell him I sang... I was fortunate in that I absolutely stopped the show cold. I mean, the audience went crazy.)」と語っている。[18]

1948年の11月1日にジュリー・アンドリュースはロンドン・パレイディアム劇場(英語版)でダニー・ケイニコラス・ブラザーズ、コメディコンビであるジョージとバート・バーナードと共にジョージ6世の家族の前で公演し、ロイヤル・コマンド・ヴァラエティ・パフォーマンス(英語版)で一人で公演した最年少のパフォーマーとなった。[19][20]

ジュリー・アンドリュースは両親と共にラジオやテレビに出演する。[21]BBC ライト・プログラム(英語版)のエピソードでミュージカルでコメディ・ショウの『Up the Pole』、そして『Educating Archie』に1950年から1952年まで出演する。[20]1949年10月8日に放送されたBBCの『RadiOlympia Showtime』でテレビデビューを飾った。[22]

アンドリュースはウェスト・エンドにあるロンドン・カジノ劇場(英語版)で、バッドロールバドア姫 (Princess Badroulbadour) を演じた『アラジン』、『ハンプティ・ダンプティ』をそれぞれ一年ずつ公演した。他にも地方の劇場などで『ジャックと豆の木』、『赤ずきん』、主演として『シンデレラ』などにも出演した[21]
アメリカ合衆国でのキャリア初期

彼女の19歳の誕生日の前夜の1954年9月30日に、ジュリー・アンドリュースはロンドンで大成功したミュージカル『ボーイ・フレンド(英語版)』のポリー・ブラウン役でブロードウェイデビューを果たす。批評家たちは、アンドリュースはこのミュージカルで優れた人材だ、と評した[1][23]。『ボーイ・フレンド』の契約が切れる間際に、アンドリュースはブロードウェイの『マイ・フェア・レディ』のオーディションを受けてはどうかと勧められ、見事選ばれた[24]1955年の11月に、彼女にとっては初めてのテレビ映画である『High Tor』に出演する契約を交わしビング・クロスビーと共演した[25]

アンドリュースはリチャード・ロジャーズのミュージカル『パイプ・ドリーム(英語版)』のオーディションを受けた。ロジャーズは彼女を『パイプ・ドリーム』に出演させたいと思ったが、彼は、もしアラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ロウ(英語版)の『マイ・フェア・レディ』にオファーされたらそちらに出演しなさい、とアドバイスをする。1956年、彼女は『マイ・フェア・レディ』にレックス・ハリソンのヘンリー・ヒギンズ役に対し、イライザ・ドゥーリトル役として出演する。ロジャーズは『マイ・フェア・レディ』でのアンドリュースの才能に感心し、彼女はロジャース&ハマースタインのテレビミュージカルである『シンデレラ』に出演した。[23] 『シンデレラ』はアルフレッド・アントニーニ(英語版)の音楽的な演出の下で1957年3月31日にCBSで放映され、人々を魅惑し、推定1億700万人が視聴した[26][27]。このショーはニューヨークのブロードウェイ2248番のCBSスタジオ72よりカラーで放映された。現在は、米国でDVD化されたモノクロのキネスコープしか残っていない。 アンドリュースはこの作品でエミー賞にノミネートされた[28]

1958年から1962年の間はCBSの『The Fabulous Fifties』やNBCの『The Broadway of Lerner & Loewe』などの特別番組に出演する。エド・サリヴァン・ショーにゲスト出演したのに加え、『The Dinah Shore Chevy Show』、『What's My Line?』、『The Jack Benny Program』、『The Bell Telephone Hour』『The Garry Moore Show』などにも出演する。1962年6月、アンドリュースはCBSの特別番組の『Julie and Carol at Carnegie Hall』でキャロル・バーネットと共演した。

1960年、ラーナーとロウは彼女をグィネヴィア王妃として、リチャード・バートンや、当時まだ新人だったロバート・グーレ『キャメロット(英語版)』に出演させた。バートンは後に彼女のことを「彼女は僕の好きな共演者三人の中の一人で、他の二人はE.テイラーP. オトゥールだ。彼女は僕が唯一、一緒に寝たことがない主演女優さ。(She's one of my three favorite costars, the others being E. Taylor and P. 0'-Toole. She's the only leading lady I never slept with.)」などと語っている。しかし、映画スタジオのトップだったジャック・L・ワーナーはアンドリュースはまだ映画に出演した経験がなく、映画版の『マイ・フェア・レディ』では、代わりにイライザは映画女優であるオードリー・ヘプバーンが演じた。ジャック・L・ワーナーは「私は自分の仕事上、誰が映画に利益を与えるかを知っている。オードリー・ヘプバーンが作品を赤字にさせるようなことは絶対にない。」と語っている[29]。ワーナーはアンドリュースのもう一つの当たり役『キャメロット』の映画化権も持っており、アンドリュースはインタビューで「もちろん『キャメロット』の映画化には出演したいと思いますわ。だけど、ワーナーさんが私にやらせてくれるかしら?」と述べており[30]、最初は舞台のオリジナル・キャストで映画化が発表されたが[30]、結局映画ではバネッサ・レッドグレーブがグィネヴィア王妃役を演じている。

アンドリュースは1959年5月10日にサリーのウェイブリッジ(英語版)で舞台美術家であるトニー・ウォルトン(英語版)と結婚した。彼等はアンドリュースがロンドン・カジノ劇場(英語版)で『ハンプティ・ダンプティ』を公演中に初めて出会った。アンドリュースと夫は1962年の9月にイギリスに戻り、娘のエマ・キャサリン・ウォルトン(英語版)がロンドンで二ヶ月後に生まれた。[31]
ハリウッドスターの座


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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