アンドリュースの継父は彼女にレッスンを受けさせ始めた。最初はロンドンにある舞台芸術に特化した学校である、LondonCone-Ripman Schoolで、さらにはソプラノ歌手で声楽師でもあるマダム・リリアン・スタイルズ・アレン(英語版)に学んだ。リリアンについてアンドリュースは「彼女は私に大きな影響を与えてくれました」、 「彼女は私の三人目の母のような存在で、私は世界中で一番たくさんの母親と父親がいます。(She was my third mother ? I've got more mothers and fathers than anyone in the world.)」と語っている。リリアンの自伝『Julie Andrews ? My Star Pupil』で、リリアンは「ジュリーの声の精度と音質には驚かされた。彼女にはすぐれた絶対音感の才能があった。(The range, accuracy and tone of Julie's voice amazed me ... she had possessed the rare gift of absolute pitch.)」と書いている(しかしアンドリュースはこの話を2008年の自伝『Home』で否定している)[8][11]。アンドリュースは「マダムは私がモーツァルトやロッシーニをできると確信していたけれど、正直なところ私は一度もやったことがありません。(Madame was sure that I could do Mozart and Rossini, but, to be honest, I never was.)」と後に語っている[12]。自身の声について、「私は混ざり気のない、きれいで、とても細く、4オクターブの声を持っていて、犬が数マイル離れていても呼べたほどでした。(I had a very pure, white, thin voice, a four-octave range ? dogs would come for miles around.)」と語っている[12]。LondonCone-Ripman Schoolを卒業後、ベックナムの地元の学校Woodbrook Schoolで芸術教育を続けた[13]。 ジュリー・アンドリュースは1945年の初頭から約2年間、両親と一緒にノーギャラでステージに上がる。「ある日、昼寝をしなさいといわれました。それはママとパパ(テッド・アンドリュース)と一緒に夜に歌うことになったからでした(Then came the day when I was told I must go to bed in the afternoon because I was going to be allowed to sing with Mummy and Pop in the evening)」と、当時の状況を振り返っている。彼女はまだ小さかったため、ビールの木枠の上に立ちマイクで歌った。時々は母親がピアノの伴奏をし、それに合わせてソロか義父とのデュエットをした。「緊張して怖かったけど、上手く歌えた。(It must have been ghastly, but it seemed to go down all right.)」[14][15] ジュリー・アンドリュースは継父が彼女を、ロンドンにあるモス・エンパイヤーズ
経歴
イギリスでのキャリア初期
1948年の11月1日にジュリー・アンドリュースはロンドン・パレイディアム劇場(英語版)でダニー・ケイ、ニコラス・ブラザーズ、コメディコンビであるジョージとバート・バーナードと共にジョージ6世の家族の前で公演し、ロイヤル・コマンド・ヴァラエティ・パフォーマンス(英語版)で一人で公演した最年少のパフォーマーとなった。[19][20]
ジュリー・アンドリュースは両親と共にラジオやテレビに出演する。[21]BBC ライト・プログラム(英語版)のエピソードでミュージカルでコメディ・ショウの『Up the Pole』、そして『Educating Archie』に1950年から1952年まで出演する。[20]1949年10月8日に放送されたBBCの『RadiOlympia Showtime』でテレビデビューを飾った。[22]
アンドリュースはウェスト・エンドにあるロンドン・カジノ劇場(英語版)で、バッドロールバドア姫 (Princess Badroulbadour) を演じた『アラジン』、『ハンプティ・ダンプティ』をそれぞれ一年ずつ公演した。他にも地方の劇場などで『ジャックと豆の木』、『赤ずきん』、主演として『シンデレラ』などにも出演した[21]。 彼女の19歳の誕生日の前夜の1954年9月30日に、ジュリー・アンドリュースはロンドンで大成功したミュージカル『ボーイ・フレンド
アメリカ合衆国でのキャリア初期
アンドリュースはリチャード・ロジャーズのミュージカル『パイプ・ドリーム(英語版)』のオーディションを受けた。ロジャーズは彼女を『パイプ・ドリーム』に出演させたいと思ったが、彼は、もしアラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ロウ(英語版)の『マイ・フェア・レディ』にオファーされたらそちらに出演しなさい、とアドバイスをする。1956年、彼女は『マイ・フェア・レディ』にレックス・ハリソンのヘンリー・ヒギンズ役に対し、イライザ・ドゥーリトル役として出演する。ロジャーズは『マイ・フェア・レディ』でのアンドリュースの才能に感心し、彼女はロジャース&ハマースタインのテレビミュージカルである『シンデレラ』に出演した。[23] 『シンデレラ』はアルフレッド・アントニーニ(英語版)の音楽的な演出の下で1957年3月31日にCBSで放映され、人々を魅惑し、推定1億700万人が視聴した[26][27]。このショーはニューヨークのブロードウェイ2248番のCBSスタジオ72よりカラーで放映された。現在は、米国でDVD化されたモノクロのキネスコープしか残っていない。 アンドリュースはこの作品でエミー賞にノミネートされた[28]。
1958年から1962年の間はCBSの『The Fabulous Fifties』やNBCの『The Broadway of Lerner & Loewe』などの特別番組に出演する。エド・サリヴァン・ショーにゲスト出演したのに加え、『The Dinah Shore Chevy Show』、『What's My Line?』、『The Jack Benny Program』、『The Bell Telephone Hour』『The Garry Moore Show』などにも出演する。1962年6月、アンドリュースはCBSの特別番組の『Julie and Carol at Carnegie Hall』でキャロル・バーネットと共演した。
1960年、ラーナーとロウは彼女をグィネヴィア王妃として、リチャード・バートンや、当時まだ新人だったロバート・グーレ『キャメロット(英語版)』に出演させた。