ジュリー・アンドリュースは両親と共にラジオやテレビに出演する。[21]BBC ライト・プログラム(英語版)のエピソードでミュージカルでコメディ・ショウの『Up the Pole』、そして『Educating Archie』に1950年から1952年まで出演する。[20]1949年10月8日に放送されたBBCの『RadiOlympia Showtime』でテレビデビューを飾った。[22]
アンドリュースはウェスト・エンドにあるロンドン・カジノ劇場(英語版)で、バッドロールバドア姫 (Princess Badroulbadour) を演じた『アラジン』、『ハンプティ・ダンプティ』をそれぞれ一年ずつ公演した。他にも地方の劇場などで『ジャックと豆の木』、『赤ずきん』、主演として『シンデレラ』などにも出演した[21]。 彼女の19歳の誕生日の前夜の1954年9月30日に、ジュリー・アンドリュースはロンドンで大成功したミュージカル『ボーイ・フレンド
アメリカ合衆国でのキャリア初期
アンドリュースはリチャード・ロジャーズのミュージカル『パイプ・ドリーム(英語版)』のオーディションを受けた。ロジャーズは彼女を『パイプ・ドリーム』に出演させたいと思ったが、彼は、もしアラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ロウ(英語版)の『マイ・フェア・レディ』にオファーされたらそちらに出演しなさい、とアドバイスをする。1956年、彼女は『マイ・フェア・レディ』にレックス・ハリソンのヘンリー・ヒギンズ役に対し、イライザ・ドゥーリトル役として出演する。ロジャーズは『マイ・フェア・レディ』でのアンドリュースの才能に感心し、彼女はロジャース&ハマースタインのテレビミュージカルである『シンデレラ』に出演した。[23] 『シンデレラ』はアルフレッド・アントニーニ(英語版)の音楽的な演出の下で1957年3月31日にCBSで放映され、人々を魅惑し、推定1億700万人が視聴した[26][27]。このショーはニューヨークのブロードウェイ2248番のCBSスタジオ72よりカラーで放映された。現在は、米国でDVD化されたモノクロのキネスコープしか残っていない。 アンドリュースはこの作品でエミー賞にノミネートされた[28]。
1958年から1962年の間はCBSの『The Fabulous Fifties』やNBCの『The Broadway of Lerner & Loewe』などの特別番組に出演する。エド・サリヴァン・ショーにゲスト出演したのに加え、『The Dinah Shore Chevy Show』、『What's My Line?』、『The Jack Benny Program』、『The Bell Telephone Hour』『The Garry Moore Show』などにも出演する。1962年6月、アンドリュースはCBSの特別番組の『Julie and Carol at Carnegie Hall』でキャロル・バーネットと共演した。
1960年、ラーナーとロウは彼女をグィネヴィア王妃として、リチャード・バートンや、当時まだ新人だったロバート・グーレ『キャメロット(英語版)』に出演させた。バートンは後に彼女のことを「彼女は僕の好きな共演者三人の中の一人で、他の二人はE.テイラーとP. オトゥールだ。彼女は僕が唯一、一緒に寝たことがない主演女優さ。(She's one of my three favorite costars, the others being E. Taylor and P. 0'-Toole. She's the only leading lady I never slept with.)」などと語っている。しかし、映画スタジオのトップだったジャック・L・ワーナーはアンドリュースはまだ映画に出演した経験がなく、映画版の『マイ・フェア・レディ』では、代わりにイライザは映画女優であるオードリー・ヘプバーンが演じた。ジャック・L・ワーナーは「私は自分の仕事上、誰が映画に利益を与えるかを知っている。オードリー・ヘプバーンが作品を赤字にさせるようなことは絶対にない。」と語っている[29]。ワーナーはアンドリュースのもう一つの当たり役『キャメロット』の映画化権も持っており、アンドリュースはインタビューで「もちろん『キャメロット』の映画化には出演したいと思いますわ。だけど、ワーナーさんが私にやらせてくれるかしら?」と述べており[30]、最初は舞台のオリジナル・キャストで映画化が発表されたが[30]、結局映画ではバネッサ・レッドグレーブがグィネヴィア王妃役を演じている。
アンドリュースは1959年5月10日にサリーのウェイブリッジ(英語版)で舞台美術家であるトニー・ウォルトン(英語版)と結婚した。彼等はアンドリュースがロンドン・カジノ劇場(英語版)で『ハンプティ・ダンプティ』を公演中に初めて出会った。アンドリュースと夫は1962年の9月にイギリスに戻り、娘のエマ・キャサリン・ウォルトン(英語版)がロンドンで二ヶ月後に生まれた。[31] 1963年、アンドリュースはウォルト・ディズニー・ピクチャーズのミュージカル映画『メリー・ポピンズ』の撮影を始める。ウォルト・ディズニーは、『キャメロット』の公演を観てアンドリュースは「何をやっても完璧!(practically perfect in every way!)」なイギリス人のナニーにぴったりだと思った。アンドリュースはその頃妊娠6ヶ月であったため断ったが、しかしディズニーは丁寧に「待ちましょう。(We'll wait for you.)」と断言した。[32]映画『メリー・ポピンズ』(1964年) 『メリー・ポピンズ』はディズニー史上、一番の興行成績をあげた。アンドリュースはこの映画で1964年のアカデミー主演女優賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。ディズニー映画でアカデミー主演女優賞にノミネート(後に受賞)されたのはいまだに彼女だけである。彼女と共演者達はグラミー賞 最優秀子供のためのアルバム賞
ハリウッドスターの座