ジュリー・アンドリュース
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[1](しかし、最近アンドリュースが、それはビクター/ビクトリアで無理をしたため、「声帯に発生する一種の筋肉紋でした(a certain kind of muscular striation [that] happens on the vocal cords)」、また「私は癌もなく、結節もありませんでした。何もなかったのです。(I didn't have cancer, I didn't have nodules, I didn't have anything.)」と述べている。[50])1999年アンドリュースは喉の手術を行ったスコット・ケセラー氏とジェフリー・リビン氏を含むマウントサイナイ病院の医師を医療過誤で告訴した。当初、医師たちはアンドリュースに声は6週間で戻ると断言していたが、アンドリュースの義理の娘のジェニファー・エドワーズ(英語版)は1999年に「二年もたちましたが、まだそれ(以前の歌声)は戻っていません。(it's been two years, and it [her singing voice] still hasn't returned.)」と話している。[51]訴訟は2000年9月に落ち着いた。[52]アンドリュースは1997年の声帯から結節を取り除くための手術の失敗によってなくしたものは、戻ってこないことを認めている。有名な4オクターブのソプラノは虚弱なアルトに変わってしまった。アンドリュースはそれについて「私はひどい調子はずれなオールド・マン・リバーなら歌えます。(I can sing the hell out of Old Man River.)」と言っている。[53]

その後2000年からマサチューセッツ総合病院の院長のスティーブン・M・ゼイトルズ(英語版)が彼女に4回手術をし話し声は戻ってきているものの、歌声までは戻っていない。[54]

歌声が失われたにもかかわらず、彼女はたくさんの仕事に関わり忙しかった。1998年にはロンドンで舞台作品の『ドリトル先生』に出演した。ジュリー・アンドリュースのウェブサイトによると、オウムのポリネシアの声を演じ、「機械の鳥の口の中にあるコンピューターチップに700ほどの文や音を録音しました。『動物とおしゃべり』の歌ではオウムのポリネシアも歌う(recorded some 700 sentences and sounds, which were placed on a computer chip that sat in the mechanical bird's mouth. In the song 'Talk to the Animals,' Polynesia the parrot even sings)」そうである。次の年1999年11月に放映されたテレビ映画、『One Special Night』でジェームズ・ガーナーと再共演した。

2000年、アンドリュースは舞台芸術の功績でエリザベス2世よりバッキンガム宮殿大英帝国勲章を受勲しデイム・コマンダー(英語版)(司令官騎士 DBE)となる。[55][56]2002年にはビバリー・ワイルシャー・ホテル(英語版)で開かれた女王の在位50周年を記念するゴールデン・ジュビリー(英語版)のハリウッドパーティでゲストの一人だった。[57]彼女は2002年にイギリス大衆による投票で選ばれたBBCの『100名の最も偉大な英国人』で女優で唯一、59位にランクインした。[58]

2001年ケネディ・センター名誉賞を受賞する。同じ年、『サウンド・オブ・ミュージック』で共演したクリストファー・プラマーと生放送でテレビ放送された『On Golden Pond』(1979年の戯曲『黄昏(英語版)』を脚色)で再共演した。
キャリアの復活

2001年、アンドリュースは『プリティ・プリンセス』に出演し、ディズニー映画は『メリー・ポピンズ』(1964年)以来となった。彼女はクラリス・レナルディ女王を演じ、その続編、『プリティ・プリンセス2/ロイヤル・ウェディング』(2004年)でも同役を演じた。『プリティ・プリンセス2』では喉の手術をおこなってから初めて映画で歌った。その"Your Crowning Glory"(ティーンアイドルのレイヴン・シモーネ(英語版)とのデュエット)という歌は彼女の回復してきている声に合わせ、1オクターブに限られた。[59] The film's music supervisor, Dawn Soler, recalled that Andrews "nailed the song on the first take. I looked around and I saw grips with tears in their eyes.[59]

アンドリュースはその後もディズニー関連の仕事を続け、ニューヨークのプラザホテルに住む女の子を描いた、ケイ・トンプソン(英語版)の児童書であるエロイーズシリーズ(英語版)を基にした2つのテレビ映画に出演した。『おてんばエロイーズ/キラキラ星のダンスパーティ(英語版)』は2003年4月に封切され、『おてんばエロイーズ/わくわくクリスマス(英語版)』は2003年11月に放送された。アンドリュースはエミー賞にノミネートされた。[28]同年、サッグハーバー(英語版)のベイ・ストリート・シアターで、1954年に彼女がブロードウェイデビューを果たしたミュージカル『ボーイフレンド』の再上演を演出し、演出家デビューした。彼女の作品の衣装と舞台背景のデザインは前夫のトニー・ウォールトンが担当し、2005年にグッズピード・オペラハウス(英語版)で再上演され、2006年に全米ツアーがおこなわれた。

2005年から2006年は ディズニーランドの50周年の18ヶ月にわたる祝賀イベント『地球上で一番ハッピーな帰郷(英語版)』公式の大使を務め、イベントの宣伝をするため各地を駆け回ったり、ナレーションを録音したり、パークのいくつかのイベントに姿をみせたりした。

2004年、アニメ大ヒット作『シュレック2』(2004年)にリリアン王妃の声を担当し、『シュレック3』(2007年)、『シュレック フォーエバー』(2010年)の続編でも同役を担当する。その後、2007年、ディズニーのミュージカルコメディである『魔法にかけられて』でナレーションをし、『メリー・ポピンズ』のような典型的なディズニー映画に敬意を払っていることを人々に示した

2007年1月、映画俳優組合より生涯功労賞を受賞し、彼女の目標はこれからも舞台の演出を続けること、そして彼女のブロードウェイ・ミュージカルを演出することだと述べた。[46]彼女は、自伝の第一部と称した、『Home: A Memoir of My Early Years』が2008年4月1日に出版された。この本はイギリスの彼女の初期のイギリスでのミュージックホールサーキットのことなどが記されていて、1962年にメリー・ポピンズ役を得るところで終わっている。2004年に、ウォルト・ディズニー・ビデオのリリースのためにメリー・ポピンズを演じ、『王様と猫』の物語をナレーションした。

2008年の7月から8月上旬、アンドリュースはアメリカでの短いツアーである『Julie Andrews' The Gift of Music』でホストを務め、[60]さまざまなロジャース&ハマースタインの歌や、彼女の最近出版された本、『Simeon's Gift』に調和させて歌った。これはかなりの年月を得て、声帯手術後の初めての公衆向けの歌手としてのパフォーマンスとなった。[61]

2009年5月、ポーリー・パビリオンで例年行われる大会、UCLA スプリング・シング(英語版)で音楽の功労賞としてジョージアイラ・ガーシュウィン賞を受賞した。受賞した際に彼女は言った。「頑張れ、熊たち(Bruins)。SCに勝つのです…ストライク・アップ・ザ・バンド、一つ一つの勝利を祝うために。(Go Bruins. Beat SC ... let the Gershwin tunes strike up the band to celebrate every one of those victories.)」
2010年以降の活動手形とサイン、チャイニーズ・シアター前で

2010年1月、アンドリュースはニューイヤーコンサートのアメリカでの公式プレゼンターを務める。[62]これは彼女の前年に続いて2回目の出演となった。[63]アンドリュースは興行収入は挙げているものの否定的な評価を受けた映画『妖精ファイター』で助演した。[64][65]この映画のプロモーションツアーで、Operation USAを紹介し、ハイチ地震の援助キャンペーンを行った。[66]

2010年5月8日、アンドリュースは21年来のロンドンでのカムバックを果たした(前のパフォーマンスは1989年にロイヤル・フェスティバル・ホールで行われたクリスマスコンサートであった)。O2アリーナで公演し、 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団が伴奏をし、演者5人と合唱した。


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