ジュネーヴの歴史は古く、ローマ時代までさかのぼり、ユリウス・カエサルがこの地を占領し、ジュネーヴという名前を与えたという。その後、神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)の支配を受けたが、1315年のモルガルテンの戦い等の独立運動の影響でハプスブルク家から離れていき、1648年のヴェストファーレン条約によって正式に独立が認められた。宗教改革記念碑 近世にはプロテスタントの一派である改革派の拠点となり、1536年にカトリックのサヴォイア公国から独立し、宗教改革がなされ、ジュネーヴ共和国としての宣言がなされ、ジャン・カルヴァンらによる共和政治が行われた。ジュネーヴ革命とも称される。 1602年、サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世が、ジュネーヴ支配をもくろみ侵入したが、市民軍の抵抗にあい失敗に終わった[注 3]。この事件は、サヴォイア公が侵入に使った梯子にちなんで“エスカラード”(梯子の意)と呼ばれる。現在のエスカラード祭はこの事件にちなんだもの[注 4]。 フォンテーヌブローの勅令の後、啓蒙主義の感化を受けた神学が台頭し、カルヴァン派の正統主義にとって代わった。市民はシトワイアン(市参事会を牛耳る門閥)とブルジョワ(ユグノー企業家)に分裂していた。1704年から1782年にかけて、これらに非市民労働者を加えた各勢力が三つ巴となって政権を争った。ユグノーが多かった時計職人がフランスでの迫害から逃れるためにジュネーブへ移住したことで時計が地場産業となった。機械式時計に用いられるジェネバ機構はジュネーブにちなんで命名された。 1781年ブルジョワと労働者が市民総会で間接民主制を採択した。翌年シトワイアンが保護同盟を結んでいた諸勢力に要請、ジュネーヴを包囲させた。ジュネーヴは降伏してブルジョワが亡命した。フランスへ逃げた者はフランス革命に関与した[注 5]。 1798年にはナポレオン・ボナパルトによりフランスに併合された。ウィーン会議において、スイス連邦に加わった。このころからジュネーヴはスイスの歴史において国際金融市場の司令塔であり続けた。 第一次世界大戦と第二次世界大戦中はスイスは中立国であったために両陣営の外交官や亡命者が集まった。1960年代にファンド・オブ・ファンズのバーニー・コーンフェルドがInvestors Overseas Services の本部をジュネーヴに置いた。2017年の調査によると、世界20位の金融センターであり、スイスではチューリッヒに次ぐ2位である[8]。 ジュネーヴに事務局・本部等を置いている国際機関には以下のものがある。
歴史
国際的な機関国際連合欧州本部世界知的所有権機関本部赤十字国際委員会
国際連合諸機関
国際連合欧州本部(旧国際連盟本部)
国際連合人権高等弁務官事務所 (OHCHR)
国際連合難民高等弁務官事務所 (UNHCR)
国際連合貿易開発会議 (UNCTAD)
国際連合エイズ合同計画 (UNAIDS)
国際連合専門機関
国際電気通信連合 (ITU)