ローマ用に制作したジョージ・ゴードン・バイロン原作の『二人のフォスカリ(英語版)』(1844年11月)、ジャンヌ・ダルクが主役のフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲から『ジョヴァンナ・ダルコ(英語版)』(1845年2月)、20日程度で書き上げた『アルツィーラ(英語版)』(8月)が立て続けに上演され、どれも相応の評価を受けた。しかしヴェルディはリウマチ[要曖昧さ回避]に苦しみ、連作の疲れに疲弊しつつあった。続く『アッティラ』では男性的な筋からソレーラに台本を依頼するも仕事が遅い上に途中でスペイン旅行に出掛ける始末でヴェルディを苛つかせた。ついにピアーヴェに仕上げさせるとソレーラとは袂を分けた[11]。1846年3月の封切でも好評を博したが[11]、過労が顕著になり[6]医者からは休養を取るようにと助言された[12]。
1846年春から、ヴェルディは完全に仕事から離れて数ヶ月の休養を取った。そして、ゆっくりと『マクベス』の構想を練った。ウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲を題材に、台本を制作するピアーヴェには何度も注文をつけた。時代考証のために何度もロンドンへ問い合わせ、劇場をフィレンツェのベルゴラ劇場に決めると前例の無い衣裳リハーサルまで行なわせた。特筆すべきは、出演者へ「作曲家ではなく詩人に従うこと」と繰り返し指示した点があり、そのために予定された容姿端麗のソプラノ歌手を断りもした[13][注釈 6]。ここからヴェルディは音楽と演劇の融合を強く意識して『マクベス』制作に臨んだことが窺える。さらにはゲネプロ中に最も重要と考えた二重唱部分の稽古をさせるなど、妥協を許さぬ徹底ぶりを見せた。1847年3月、初演でヴェルディは38回カーテンコールに立ち、その出来映えに観客は驚きを隠さなかった。ただし評価一辺倒ではなく、華麗さばかりに慣れた人々にとって突きつけられた悲劇的テーマの重さゆえに戸惑いの声も上がった[12]。本作の価値が正しく評価されるには20世紀後半まで待たされた[13]。 次の作品『群盗
ジュゼッピーナと革命
帰路、ヴェルディはパリに止まってオペラ座の依頼を受けた。しかし完全な新作を用意する余裕は無く、『十字軍のロンバルディア人』をフランス語に改訂した『イェルサレム』を制作した。そしてこの期間、頻繁にジュゼッピーナと逢い、やがて一緒に住むようになった。11月に公演された『イェルサレム』の評判はいまひとつで終わったが、彼は理由をつけてパリに留まり、バレッツィを招待さえした。1848年2月には契約で制作した『海賊(英語版)』をミラノのムツィオに送りつけ、彼はジュゼッピーナとの時間を楽しんでいた。そして二月革命の目撃者となったが、気楽な外国人の立場でそれを楽しんでさえいた[15]。
二月革命の影響は周辺諸国にも拡がり、3月にはミラノでもデモが行われ、オーストリア軍との衝突が勃発し、ついにはこれを追い出し臨時市政府が樹立された。ヴェルディがミラノに戻ったのはこの騒動が一段落した4月で、「志願兵になりたかった」という感想こそ漏らしたが5月には仕事を理由にまたパリへ向かい、暫定政権崩壊を眼にすることは無かった[16]。市郊外のパッシーでジュゼッピーナと暮らしたヴェルディは戻らず、『海賊』は初演に立ち会わない初めてのオペラとなった。しかし彼は無関心を決め込んでいたわけではなく、フランスやイギリスを見聞した経験等からイタリアでも統一の機運が高まる事、しかしそれには様々な問題がある事に思いを馳せていた。彼の次の作品は祖国への愛を高らかに歌う『レニャーノの戦い』であり、新たに共和国が樹立されたローマで開演された。ジュゼッピーナを伴いヴェルディは訪問したが、観劇者たちは興奮して「イタリア万歳」を叫び、彼を統一のシンボルとまでみなし始めていた[17]。
喧騒の渦中にあり、またコレラ蔓延などを理由に都市部を嫌ったヴェルディは1849年夏にジュゼッピーナを連れてブッセートに戻り、オルランディ邸で暮らし始めた。ここで彼は『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ(英語版)』を仕上げ、人間の心を掘り下げる次回作に取り組んだ。一方、街の人々がふたり、特にジュゼッピーナに向ける眼は厳しかった。気に留めないヴェルディが仕事で町を離れる時は、彼女はパヴィーアに母を訪ねて一人残らないようにした[18]。