ジュゼッペ・ヴェルディ
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何度かの修正が加わったが、譲れない所にはヴェルディは強硬だった[19]。原作者ユーゴーさえオペラ化に反対した[注釈 7]作品『王は楽しむ』は、封切り予定1ヶ月前に許可が下り、1851年3月に初演を迎えた。これが『リゴレット』であった[20]

『リゴレット』はあらゆる意味で型破りな作品だった。皮切りでお決まりの合唱も無く、会話から始まる第一幕。カヴァティーナ(緩)からカバレッタ(急)の形式を逆転させたアリア、朗読調の二重唱、アリアと見紛う劇的なシェーナ(劇唱)の多用[19]、渾身の自信作「女ごころの唄」、そして『マクベス』以来ヴェルディが追い求めた劇を重視する姿勢、嵐など自然描写の巧みさ、主人公であるせむしの道化リゴレットの怒り、悲哀、娘への愛情など感情を盛り立てる筋と音楽は観衆を圧倒し、イタリア・オペラ一大傑作が誕生した[20]
サンターガタの農場

『リゴレット』の成功は、ヴェルディに創作活動の充実に充分な財産、そして時間に追われず仕事を選べる余裕をもたらした。しかし私生活は万事順調とはいかなかった。ジュゼッピーナに向けられるブッセートの眼は相変わらず厳しく、それは家族も例外ではなかった。しかも父カルロが息子の管財人になったと吹聴してまわり、干渉を嫌うヴェルディは両親と距離を置き、1851年春に以前購入していた郊外のサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)にある農場に居を移した。6月に母が亡くなった事に悲しむが、ヴェルディは次の作品に取り組んで気を紛らわした。年末にはジュゼッピーナのためパリに移り、その突然さからバレッツィと少々揉めたが、翌年サンターガタに戻った2人と元々ジュゼッピーナに味方する義父は、その関係を修復できた。炎は燃えてイル・トロヴァトーレ』、1853年、Act 2.。出演:ガブリエラ・ベザンツォーニ、1920年ああ, そはかの人か?花から花へ椿姫』1853年、Act 1.。出演:ルクレツィア・ボーリ(英語版)これらの音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。

1853年1月ローマのアポロ劇場で封切りされた『イル・トロヴァトーレ』は若干旧来の形式に巻き戻されたものだったがカヴァティーナ形式の傑作として[21]成功を収め、ほぼ同時に構想を練った次回作に取り組んだ[22]。しかしこの『椿姫』3月のヴェネツィア初演は、ムツィオに宛てた手紙に書かれたように「失敗」[23]となり2回公演で打ち切られた。充分なリハーサルも取れなかった上、病弱なヒロインを演じるにはソプラノ歌手の見た目は健康的過ぎた。3幕でヒロインが死ぬシーンでは失笑さえ漏れた[23]。しかしヴェルディは雪辱に燃え、配役などを見直して5月に同じヴェネツィアで再演すると、今度は喝采を浴びた。この作品はヴェルディ唯一のプリマドンナ・オペラであった[24]

しばらくの間サンターガタで休息を取り、ヴェルディはグランド・オペラへの挑戦という野心を秘めパリに乗り込んだ。しかしこれは成就しなかった。『シチリアの晩鐘』制作では、オペラ座所属の台本作家ウジェーヌ・スクリーブに、その仕事の遅さも内容も満足できなかった。この仕事は彼を1年以上も拘束し、ついには契約破棄さえ持ち出した。同作は1855年6月に公演され好評を得たが、結果的にヴェルディにとって身が入らないものとなった。彼はすぐにでもイタリアに戻って「キャベツを植えたい」と言ったが、過去の作品を翻訳上演する契約などに縛られ、サンターガタに還ったのは年末になった[25]

サンターガタの農場はヴェルディの心休まる場となっていた。既に多くの小作人を雇うまでに順調な経営は収益を上げ、彼は音楽を忘れてジュゼッピーナと農作業の日々を楽しんだ。しかし作曲に向かう衝動は抑えがたく、彼はまた制作に身を投じる。先ず手掛けたのが『スティッフェーリオ』の改訂だった。舞台を中世イギリスに変更してピアーヴェに書き直させた本作は『アロルド(英語版)』という題で公開された。この頃には上演に応じた報酬が作曲家に払われる習慣が根付いたため、これもヴェルディの収入を安定させた。次に送り出した新作『シモン・ボッカネグラ』は朗読を重視して歌を抑え、管弦楽法による特に海の場面描写に優れた逸品だったが、1857年3月の初演では配役に恵まれず[26]、あまり評価されなかった[27]
ヴェルディ万歳掲げられた「ヴェルディ万歳」。1859年のイラスト。

ヴェルディが次回作に選んだ題材は、様々な問題を生じた。ウジェーヌ・スクリーブの『グスタフ3世』は、スウェーデングスタフ3世を題材としており、そもそも実在の王族を登場人物にすることはナポリでは禁じられていた。しかも暗殺されるという筋は検閲当局が先ず認めない。さらにはナポレオン3世の暗殺未遂事件が起き、状況は悪化した[28]。契約していた興行主のアルベルティは台本の変更を主張するがヴェルディは認めず、ついには裁判沙汰になった。これはヴェルディに不利だったが世論が彼を後押しし、結果『シモン・ボッカネグラ』公演へ契約を変更することで和解した。ヴェルディはナポリ上演のためにほぼ完成していた『グスターヴォ三世』をローマに持ち込み、舞台をスウェーデンからアメリカ・ボストンに変更した上で、いくつかのアリアを差替えるなど編曲した上で、アポロ劇場での公演に漕ぎ着けた。


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