『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入した感がある。作風はバッハ、モーツァルト、ベートーベンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、形式にこだわらず自由で気ままな作品に仕上げた[53]。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。過去の作品も経験した苦難や孤独の自己投影という側面もあったが、ファルスタッフに対しては若い頃から他者からの束縛を嫌った自分、富と名声を手にして人生を達観した自分を仮託した。『ファルスタッフ』が完成した時、ヴェルディは「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と記した[58]。
イタリア統一運動への影響パレルモのテアトロ・マッシモ(英語版)前に飾られたヴェルディの胸像。アントニオ・ウゴ作
音楽の歴史には、ある神話が永く存在した。それは『ナブッコ』第3幕のコーラス曲「行け、我が想いよ (Va, pensiero)」が、オーストリアが支配力を及ぼしたイタリア国土に含まれていたミラノを歌ったものという話であり、観客は追放される奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられ、当時の政府から厳しく禁止されていたアンコールを求め、このような行動は非常に意味深いものだったという[59]。「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われる[4]。
しかし近年の研究はその立場を取っていない。アンコールは事実としても、これは「行け、我が想いよ」ではなく、ヘブライ人奴隷が同胞の救いを神に感謝し歌う「賛美歌 (Immenso Jehova)」 を求めたとしている。このような新しい観点が提示され、ヴェルディをイタリア統一運動の中で音楽を通して先導したという見方は強調されなくなった[59]。
その一方で、リハーサルの時に劇場の労働者たちは「行け、我が想いよ」が流れるとその手を止めて、音楽が終わるとともに拍手喝采した[60]。その頃は、ピウス9世が政治犯釈放の恩赦を下したことから、『エルナーニ』のコーラス部に登場する人物の名が「カルロ (Carlo)」から「ピオ (Pio)」に変更されたことに関連して、1846年夏に始まった「ヴェルディの音楽が、イタリアの国家主義的な政治活動と連動したと確認される事象」の拡大期にあった[61]。
後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれた。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では御せないイタリア人の情を表現したためと解釈される[9]。また、サルデーニャ王国によるリソルジメントが進む中で、彼の名前Verdiの綴りが “Vittorio Emanuele Re d’Italia” (イタリア国王 ヴィットーリオ=エヌマエーレ)の略号にもなっていたのも関係している。
ヴェルディは1861年に国会議員となるが、これはカヴールの要請によるもので、文化行政に取り組んだ時期もあったが[62]、カヴールが亡くなると興味を失った[33]。1874年には上院議員となるも、政治に関わることはなかった[44]。 ブッセートのバレッツィ家で、子供の頃のジュゼッペ・ヴェルディが演奏した楽器は[63]、アントン・トマーシェク
楽器
リミニで行われた1857年のA.ガッリ劇場の落成式の際、ヴェルディが演奏したのはヨーゼフ・ダンクのグランドピアノだった[66]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ このスピネットは「憩いの家」に展示されている(加藤 (2002)、p.52)。ヴェルディが夢中になって弾くせいで一度壊れたが、カヴァレッティという職人が修理をした。この際に彼はヴェルディの腕前に感動して費用を請求せず、スピネットの蓋の裏に「少年の優れた音楽の資質が、私への代金だ」と書き残した(加藤 (2002)、pp.10-15、生誕)。
^ ヴェルディの伝記には必ず登場する場面。台本が落ちた場所には、「机」(油井宏隆)、「テーブル」(加藤 (2002)、p.44)、「ベッド」(石戸ら (1998)、p.17)、「落とした」(オペラの発見 (1995)、p.167)など様々に言われる。