ジュゼッペ・ヴェルディ
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『シチリアの晩鐘』の出来はヴェルディに不満を残した[25]が、フランス・オペラ座での仕事を通じ彼はグランド・オペラの手法を取り入れた[1]。『シモン・ボッカネグラ』『仮面舞踏会』『運命の力』は改訂版を含め劇作性を高める方向を強め、『ドン・カルロ』は初演ではいま一つだったが[37]、その改訂版および『アイーダ』ではイタリア流グランド・オペラの成熟を実現した[35]

特に『アイーダ』は多国籍の様式を混合させた[35]。イタリア・オペラの華麗な旋律で満たしながら、声楽を重視する点は覆して管弦楽とのバランスを取らせ、以前から取り組んだドラマ重視のテーマと融合させることに成功した。舞台であるエジプトについて情報を仕入れたが、楽曲はエジプトの音楽ではなくヴェルディが独自に創造した異国的音楽であった。フランスのグランド・オペラも取り入れながら、その様式もそのままではなく工夫を凝らした4幕制を取るなど、独自の作風を実現した[40]

ヴェルディの大作は高い人気を誇り、それらを何度も繰り返して公演する方法が一般化し、例えばスカラ座はそれまで年3本程度のオペラを上演していたが、1848年以降は平均でほぼ年1本となった。これはレパートリー・システムと呼ばれた[55]。作曲者は初演こそ慣例的に舞台を監督したが、このシステムが確立すると実際の監督は指揮者が担うことになり、オペラ専門の指揮者が現れだした[55]。この代表がヴェルディの友で後に仲違いをしたアンジェロ・マリアーニである。レパートリー・システムはヴェルディの作品から始まったとも言えるが、指揮者の権限が強まると中には勝手に改作を施す者も現れ、ヴェルディは激怒したと伝わる。しかし、この流れは20世紀の演奏重視の傾向へ繋がってゆく[56]
晩年の傑作

16年の空白を経て発表された新作[44]『オテロ』と最後の作『ファルスタッフ』は、それぞれに独特な作品となったが、いずれも才能豊かなアッリーゴ・ボーイトの手腕と、結果的に完成することはなかったが長年『リア王』を温めていた[57]ヴェルディのシェイクスピアに対する熱意が傑作の原動力となった[53]

『オテロ』は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示する理論(シンフォニズム[1])に対するイタリア側からの回答となった[53]。演技に対するこだわりも強く、作曲家という範囲を超えて主人公オテロが短刀で自殺するシーンをヴェルディは演技指導し、実演して舞台に転がり倒れこんだ際には皆が驚きの余り駆け寄ったという[57]

『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入した感がある。作風はバッハモーツァルトベートーベンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、形式にこだわらず自由で気ままな作品に仕上げた[53]。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。過去の作品も経験した苦難や孤独の自己投影という側面もあったが、ファルスタッフに対しては若い頃から他者からの束縛を嫌った自分、富と名声を手にして人生を達観した自分を仮託した。『ファルスタッフ』が完成した時、ヴェルディは「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と記した[58]
イタリア統一運動への影響パレルモのテアトロ・マッシモ(英語版)前に飾られたヴェルディの胸像。アントニオ・ウゴ作

音楽の歴史には、ある神話が永く存在した。それは『ナブッコ』第3幕のコーラス曲「行け、我が想いよ (Va, pensiero)」が、オーストリアが支配力を及ぼしたイタリア国土に含まれていたミラノを歌ったものという話であり、観客は追放される奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられ、当時の政府から厳しく禁止されていたアンコールを求め、このような行動は非常に意味深いものだったという[59]。「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われる[4]

しかし近年の研究はその立場を取っていない。アンコールは事実としても、これは「行け、我が想いよ」ではなく、ヘブライ人奴隷が同胞の救いを神に感謝し歌う「賛美歌 (Immenso Jehova)」 を求めたとしている。このような新しい観点が提示され、ヴェルディをイタリア統一運動の中で音楽を通して先導したという見方は強調されなくなった[59]

その一方で、リハーサルの時に劇場の労働者たちは「行け、我が想いよ」が流れるとその手を止めて、音楽が終わるとともに拍手喝采した[60]。その頃は、ピウス9世が政治犯釈放の恩赦を下したことから、『エルナーニ』のコーラス部に登場する人物の名が「カルロ (Carlo)」から「ピオ (Pio)」に変更されたことに関連して、1846年夏に始まった「ヴェルディの音楽が、イタリアの国家主義的な政治活動と連動したと確認される事象」の拡大期にあった[61]

後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれた。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では御せないイタリア人の情を表現したためと解釈される[9]


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