ジュゼッペ・ヴェルディ
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さらにはナポレオン3世の暗殺未遂事件が起き、状況は悪化した[28]。契約していた興行主のアルベルティは台本の変更を主張するがヴェルディは認めず、ついには裁判沙汰になった。これはヴェルディに不利だったが世論が彼を後押しし、結果『シモン・ボッカネグラ』公演へ契約を変更することで和解した。ヴェルディはナポリ上演のためにほぼ完成していた『グスターヴォ三世』をローマに持ち込み、舞台をスウェーデンからアメリカ・ボストンに変更した上で、いくつかのアリアを差替えるなど編曲した上で、アポロ劇場での公演に漕ぎ着けた。こうして1859年2月に改題を加えた『仮面舞踏会』は開幕された[29]"E scherzo od e follia"仮面舞踏会』、1859年、Act 1, Scene 2。出演:エンリコ・カルーソー、フリーダ・ヘンペル(英語版)、マリア・デュシェンヌ、アンドレス・デ・セグロラ、レオン・ロティエ(英語版).この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。

楽曲の美しさと演劇性を高度に両立させた内容の秀逸さもさることながら、その筋が時代の雰囲気に適合し、『仮面舞踏会』に観客は熱狂した。サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、周辺諸国との関係変化を受け1月の国会で統一に向けた演説を行い、イタリア全土で機運が高まっていた[28]。このスローガンViva Vittorio Emanuele ReD'Italia(イタリアの王ヴィットーリオ・エマヌエーレ万歳)が略され「Viva VERDI」(ヴェルディ万歳)と偶然になった[30][31]ことが起因し、彼を時代の寵児に押し上げた[29]。このオペラの成功によってローマのアカデミア・フィラルモニカ名誉会員に選出されたヴェルディは、一方で聴衆は作品に正当な評価を向けていないと感じ、「もうオペラは書かない」と言って次の契約を断り、サンターガタの農場へ身を引っ込めた[29]
再婚と政治メルキオーレ・デルフィコ(英語版)によって漫画化されたヴェルディ、1860年

1859年8月29日、ヴェルディとジュゼッピーナはサヴォアのコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式を挙げた[32]。45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げた[28]。夫妻は平穏な生活を送ったが、イタリアは第二次独立戦争でオーストリアに勝利し、この知らせにはヴェルディも喜んだ[33]

だがそれはすぐに失望へ変わった。同じくオーストリアと対立しイタリアを支援したナポレオン3世が秘かにオーストリアと通じヴィッラフランカの講和に踏み切った。エマヌエーレ2世はしぶしぶこれを呑み、宰相カミッロ・カヴールは辞任した。しかし、各公国の領主層はことごとく亡命し、民衆による暫定政府が立ち上げられていた。カミッロ・カヴール。1860年。

パルマ公国もモデナと合併されて議会が開かれることになり、ブッセート市の当局は地域の代表をヴェルディに打診した。政治家の資質などないと自覚していたが、彼はイタリアのためとこれを受けた。9月7日に開かれたパルマ議会はサルデーニャ王国との合併を決議し、ヴェルディはパルマの代表として王国首都のトリノでエマヌエーレ2世に謁見した。さらに彼は郊外で隠棲し農業をしていたカヴールと会い、音楽から身を引いた農夫として政治から身を引いた農夫と話し合った[33]

その後サンターガタに戻ったヴェルディは妻とジェノヴァ旅行を楽しむなど平穏に過ごしたが、イタリア情勢はまた動き始めた。事態を進められない内閣をエマヌエーレ2世は罷免し、カヴールが復帰すると各小国との合併が進み、1861年に統一は成就してイタリア王国が誕生した。カヴールは初代首相に就任し、彼はヴェルディに国会議員に立候補するよう薦めた。議会中静かに座っている自信が無いと断るヴェルディは逆に説得されしぶしぶ立ち、彼は当選した[34]下院議員の一員となったヴェルディに能力も野心も無く、ただカヴールに賛成するだけで過ごしたが、6月に当のカヴールが亡くなると意欲は失せ、4年の任期中[35]に特に目立つ政治活動は行わなかった[33]
音楽に倦み、また惹かれる

1861年秋、ヴェルディは音楽制作に戻っていた。激変したイタリアに刺激された事、また、まだ知らぬロシアからのオファーが舞い込んだことも情熱を掻き立てた。一流の歌手が揃うペテルブルク帝室歌劇場も期待させた。題材をスペインの戯曲に求め、書き上げた曲を携えて12月に夫妻は汽車の乗客となった。しかし、ソプラノ歌手が体調を崩して舞台は中止され、質を落とす位ならばと数ヶ月単位の延期を決めて夫妻はパリに向かった[36]ひとときも休めず運命の力』、1862年、Act 3, Scene 3.。


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