音楽院でソルフェージュ教師を務めるラヴィーニャは、またスカラ座で作曲や[6]演奏も担当していた。彼はヴェルディの才能を認め、あらゆる種類の作曲を指導し、数々の演劇を鑑賞させ、さらにスカラ座のリハーサルまで見学させた[5]。知り合った指揮者のマッシーニを通じて見学したリハーサルでたまたま副指揮者が遅れ、ヴェルディがピアノ演奏に駆り出されると、熱中するあまり片手で指揮を執り始めた。絶賛したマッシーニが本番の指揮を託すと、演奏会は成功を収め、ヴェルディにはわずかながら音楽の依頼が舞い込むようになった[7]。
そのような頃、プロヴェージ死去の報が届いた。彼は大聖堂のオルガン奏者、音楽学校長、町のフィルハーモニー指揮者兼音楽監督などブッセートの重要な音楽家であった。バレッツィはヴェルディを呼び戻して後継させようとしたが、進歩的なプロヴェージを嫌っていた主席司祭が対立候補を立て、町を巻き込んだ争いに発展した。ミラノに後ろ髪を引かれつつもバレッツィへの義理から、1836年2月にヴェルディはパルマで音楽監督試験を受け絶賛されつつ合格し、ブッセートへ戻って職に就いた[7]。
22歳のヴェルディは着任したブッセートでまじめに仕事に取り組み、同年マルゲリータと結婚し、1837年に長女ヴィルジーニアが生まれた。しかし心中では満足できず、秘かに取り組んでいた作曲『ロチェステル』を上演できないかとマッシーニへ働きかけたりした。1838年には長男イチリオが生まれ、歌曲集『六つのロマンス』が出版されたが、同じ頃ヴィルジーニアが高熱に苦しんだ末に亡くなった。イチリオの出産以来体調が優れないマルゲリータや、未だ尾を引く主席司祭側とのいざこざ、自らの音楽への探求、そして生活の変化を目指し、ヴェルディは再びミラノへ行くことを決断した[7]。 引き続きバレッツィの支援を受けてミラノに居を移したヴェルディは、つてを頼って書き上げたオペラ作曲『オベルト』をスカラ座支配人メレッリに届け、小規模な慈善興行でも公演できないか打診した。しばらく待たされたが色好い返事を受け、1839年初頭にはソプラノのジュゼッピーナ・ストレッポーニやテノールのナポレオーネ・モリアーニらを交えたリハーサルが行われた。しかし、モリアーニの体調不良を理由に公演は中止され、ヴェルディは落胆した[8]。 ところが、今度はメレッリ側から『オベルト』をスカラ座で本公演する働きかけがあった。これはストレッポーニが作品を褒めたことが影響した。台本はテミストークレ・ソレーラの修正を受け、秋ごろにはリハーサルが始まった。この最中、息子イチリオが高熱を発し、わずか1歳余りで命を終えた。動き出した歯車を止める訳にはいかないヴェルディは悲しみを胸に秘めたまま準備を進め、11月17日に『オベルト』はスカラ座で上演された[8]。 ヴェルディ初作品は好評を得て、14回上演された。他の町からも公演の打診があり、楽譜はリコルディ社から出版され、売上げの半分はヴェルディの収入となった。メレッリは新作の契約をヴェルディと結び、今後2年間に3本の製作を約束させた。不幸にも遭ったがこれでやっと妻に楽をさせられるとヴェルディは安堵していた[8]。 次回作にメレッリは『追放者』というオペラ・セリアを提案したがヴェルディは気が乗らず、代わりにオペラ・ブッファ(喜劇)『贋のスタラチオ』を改題して取り組むことになった。ところが1840年6月18日、マルゲリータが脳炎に罹り死去した。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎えメレッリに契約破棄を申し入れたが拒否され、どこか呆然としたまま『一日だけの王様
処女作『オベルト』
黄金の翼
年も押し迫ったある日の夕方、街中でメレッリとヴェルディは偶然会った。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けた。もうやる気の無いヴェルディは帰宅し台本を放り出したが、開いたページの台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って (Va, pensiero, sull'ali dorate)」が眼に入り[注釈 2]、再び音楽への意欲を取り戻した[8][9][注釈 3]。『ナブッコ』の舞台(2004年)
ソレーラに脚本の改訂を行わせ、作曲を重ねたヴェルディは1841年秋に完成させた。彼は謝肉祭の時期に公演される事に拘り、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えた。観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、黄金の翼の合唱では当時禁止されていたアンコールを要求するまで熱狂した[注釈 4]。1日にしてヴェルディの名声を高めたオペラ『ナブッコ』は成功を収めた[8]。 『ナブッコ』は春に8回、秋にはスカラ座新記録となる57回上演された[9]。ヴェルディは本人の好みに関わらず社交界の寵児となり、クララ・マッフェイ
ガレー船の年月と『マクベス』
数々の劇場からオファーを受けたヴェルディの次回作はヴィクトル・ユーゴー原作から『エルナーニ』が選ばれ、台本は駆け出しのフランチェスコ・マリア・ピアーヴェが担当した。ヴェルディは劇作に妥協を許さず何度もピアーヴェに書き直しを命じ、出演者も自ら選び、リハーサルを繰り返させた。1844年3月にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演を迎えた本作も期待を違えず絶賛された。それでもヴェルディは次を目指し、後に「ガレー船の年月」[注釈 5]と回顧する多作の時期に入った[10]。
ローマ用に制作したジョージ・ゴードン・バイロン原作の『二人のフォスカリ(英語版)』(1844年11月)、ジャンヌ・ダルクが主役のフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲から『ジョヴァンナ・ダルコ(英語版)』(1845年2月)、20日程度で書き上げた『アルツィーラ(英語版)』(8月)が立て続けに上演され、どれも相応の評価を受けた。