ジュゼッペ・ガリバルディ
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1849年6月30日、マッツィーニとガリバルディはアペニン山脈に退いての継戦、ローマ市街地での玉砕、フランス軍への降伏の三択のいずれを選ぶか協議した。

ガリバルディは「我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する」(Dovunque saremo, cola sara Roma)[3] と抗戦を主張して、7月2日に4,000人の兵士を連れてローマを脱出した。7月3日、ローマに入城したフランス軍は教皇領を復活させてガリバルディ軍に追撃の軍を送り、ガリバルディは北イタリア各地を転戦しながら残る独立共和国ヴェネツィアへと向かった。スペイン軍、フランス軍、オーストリア軍、ナポリ軍の追撃の前に多くの兵士が倒れ、ラヴェンナの近くで妻のアニータ(彼女は「イタリアのアマゾネス」と呼ばれた女傑で、常に夫と共に前線で戦った)も戦死した。
2度目の放浪と帰国

わずかな生き残りと共にピエモンテ領内にたどり着いたガリバルディであったが、サヴォイア家からは支援を拒まれ、海外に逃れるように勧められた。1850年、渡米してニューヨークの市民となり、アントニオ・メウッチが経営するスタテン島の蝋燭工場に招かれて運営を手伝ったが、ほどなく再び戦いに身を投じる事を望み始めた[4]。その後、船を手に入れ、ジュゼッペ・パーネを名乗って何度か太平洋への航海に出発、複数の資料は彼が遠く離れたオーストラリアバス海峡を訪れたことを記している[5][6]ペルーではアンデスの革命のヒロインで革命家シモン・ボリバルの恋人だったマヌエラ・サエンス(英語版)とも知り合った。

1854年3月21日、欧州に向けて出発したガリバルディは、タイン川を経由してイングランド北東部に位置するノーサンバーランド州(現タイン・アンド・ウィア)のサウス・シールズに船団を率いて入港した。ガリバルディはアメリカ国籍の船長としての身分で行動し、船団にも星条旗が掲げられていた。とはいえ、既にフランス軍を寡兵で破ったガリバルディの名声は欧州全土に広がっており、瞬く間にイングランド住民から熱狂的に歓迎された。騒ぎは大きくなる一方で、とうとうニューカッスルからイギリス政府の高官まで訪れる騒ぎになった。ガリバルディは高官達の晩餐会への誘いは丁重に断ったが、地元の住民たちが金を出し合って記念の言葉が刻まれた剣を作ると、喜んで受け取ったという[7]

1854年の後半頃にイタリアに帰国したが、すぐには軍事行動を起こさなかった。一族の資産を投じてカプレーラ島の半分を購入して農業を営みながら機会を伺った。1856年ダニエーレ・マニンのヴェネツィア国民党に加盟する。1859年第二次イタリア独立戦争が勃発した。ガリバルディはマッツィーニの共和的な理想主義と決別してサヴォイア王家が率いるサルデーニャ・ピエモンテ軍に加わった。陸軍少将として“アルプス猟兵隊”という義勇師団を組織、ヴァレーゼコモ、その他の地でオーストリア軍に勝利した。オーストリアはサルデーニャにロンバルディアを明け渡し、イタリア統一は大きな一歩を踏み出した。

しかしこの戦争の側面の1つは、彼を大変落胆させる結果となる。彼の故郷であるニースサヴォワと共に、プロンビエールの密約に基づいてフランス参戦の見返りとして割譲されたからである。1860年4月に、密約を進めた親仏派のカヴールをガリバルディは強く批判し、以降彼の合理主義的政策に一種の嫌悪感すら覚えるようになった。赤シャツ隊ナポリ・シチリア王国軍を破る赤シャツ隊(カラタフィーミ)
1860年の進軍

1860年初頭、両シチリア王国メッシーナパレルモで起きた反乱は、ガリバルディに活躍の機会を与えた。彼は約1000人の義勇兵を集め、千人隊(または、皆に赤いシャツを着せたことから「赤シャツ隊」と呼ばれる)を結成した。2隻の船に分乗してジェノヴァを出発した彼らは5月11日、シチリア島の最西端のマルサラに上陸した。

各地の反乱軍を取り込んで軍の規模を拡大させながら、5月13日にはカラタフィーミで敵軍を撃退した。ガリバルディは、そこで自分がシチリアの支配者であることを宣言した。5月27日には、島の首都パレルモへと進軍し、包囲攻撃を開始した。彼が駐屯軍に対して反抗していた住民の支持を取り付けたことは、この戦いを有利に進めることのできた一つの原因といえよう。しかし街が陥落するよりも前、援軍の到着により街はほぼ壊滅状態となった。そのときイギリス海軍提督が介入し、またナポリ王国の艦隊が町を包囲することによって停戦への流れとなった。

ガリバルディはめざましい勝利と世界的な名声、イタリア中の賛美とを一度に手に入れた。6週間後には島の東、メッシーナへと進軍した。7月末には敵対勢力に残されたのは1つの砦のみとなった。

シチリア島での進軍を終え、義勇軍はナポリ艦隊の勢力下であるメッシーナ海峡を渡った。ガリバルディの進軍は地元のレジスタンスに歓迎され、9月7日にはナポリへと入城することができた。しかし彼はナポリを支配するブルボン家の王フランチェスコ2世の身柄は保証した。シチリア軍のほとんどは依然として王党派であり、シチリアからナポリにかけて各地で吸収したガリバルディの義勇軍も25,000人に膨れ上がっていたため、彼らの意向を無視できなかったからである。10月1日から2日にかけて、ヴォルトゥルノでの主要な戦い(英語版)が勃発したが、戦闘の大部分はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世指揮下のサルデーニャ軍に任された。

ガリバルディはサルデーニャ王国の首相カヴールに対して、深い嫌悪感を抱いていた。彼はカヴールの実用主義的、現実主義的政策を信用せず、また自らの生まれ故郷ニースをフランスに割譲した外交政策に対して、個人的な恨みすら抱いていた。しかし一方で、ガリバルディはサルデーニャによるイタリア統一に魅かれ始めていた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世との有名な会談(「テアーノの握手(イタリア語版)」として有名、1860年10月26日)ではガリバルディはエマヌエーレ2世に対し、イタリアの王として挨拶し、握手した。そして全軍に対して「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と叫んだ。彼は次の日には一言「陛下、あなたに従います」とだけ言葉を残し、軍の職を辞した。彼が占領した地域は全てヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上され、イタリア統一は大きな軍事的衝突を回避する形で成就した。11月7日には彼の働きに対するどんな見返りも断りつつ、カプレーラ島へと退いた。
ローマ問題アスプロモンテに佇むガリバルディと兵士達詳細は「ローマ問題」を参照

このようなガリバルディの革命事業は、決して満足のいくものではなかった。“アルプス山脈からアドリア海までの完全な自由”という彼のモットーから見れば、まだローマヴェネツィア未回収であった。マッツィーニとて新たな支配的な政府に不満であったから、新共和国に対する揺さぶりを続けた。ガリバルディも王の怠惰に不満があり、冷遇に苛立ってもいた。彼が教皇領の奪回を意図したのはこのときである。

教皇領の奪回は世界中のカトリック教徒から不審の目で見られており、ナポレオン3世もフランス軍をローマに駐留させることによって、教皇領のイタリアからの独立を保証していた。1862年6月、ガリバルディはジェノヴァを出航し、教皇領奪回のための義勇兵を求めてパッラヴィチーノ(イタリア語版、フランス語版)が県知事を務めるパレルモに上陸した。熱狂的にイタリアの完全統一を望む者たちはすぐに彼の義勇軍に加わり、イタリア本土に向かうべくメッシーナへと向かった。到着したときには彼は2000の兵を率いていたが、駐留軍は王の指示を忠実に守って彼らの通過を禁止した。そのため彼らは南に転進し、カターニアから出航した。ガリバルディはここで「勝者としてローマに入城するか、あるいはその壁の前に倒れるかのどちらかだ」と宣言したという。

8月14日にはメーリトに上陸し、一時カラブリアの山々を占領した(アスプロモンテの戦い)。イタリア政府のウルバーノ・ラッタッツィ(イタリア語版、英語版)首相は、この行動を支援することはもとより承認さえもしなかった。チャルディーニ将軍は義勇軍に対し、パッラヴィチーニ(イタリア語版、フランス語版)大佐の師団を派遣し、両軍は8月28日に対峙した。


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