ジャーニー_(バンド)
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まもなくドラマーがジェフ・ベック・グループフランク・ザッパが率いるザ・マザーズ・オブ・インヴェンションなどでキャリアを積んだエインズレー・ダンバーに替わり、1974年には当時のCBSコロムビア(のちのソニー・ミュージック)との契約を結んだ。デビューにあたっては、コンサートのフリーパスを懸賞としたバンド名公募が地元のラジオ局によって行われたが、ここではまともなアイディアが得られず、結果的にはスタッフの提案によって「ジャーニー」をバンド名とした[注 1]。翌1975年にデビュー作『宇宙への旅立ち』を発表。セカンド・アルバム『未来への招待状』のリリース前にティックナーが脱退し、このアルバムと次作『ネクスト?果てしなき挑戦』ではショーン、ローリー、ヴァロリー、そしてダンバーの4人編成となる。

この当時のジャーニーは「インストゥルメンタル曲主体のプログレッシヴ系ロックバンド」という位置付けにあったが、商業的には振るわず、補強のためロバート・フライシュマンがバンド初の専任ボーカリストとして1977年6月から加入。ニュー・アルバムのための曲作りに参加しつつツアーに臨むも約3か月後のツアー中に解雇され、ほどなく二代目専任ヴォーカリストとしてスティーヴ・ペリーが加入。フライシュマンの解雇とペリーの加入は、当時のマネージャーであったハービー・ハーバート(かつてサンタナにロードクルーとして参加していた彼が「ショーンを中心としたバンドを作ろう」と思い立ったことがジャーニー結成のそもそもの発端であった)の戦略的判断によるものであったと言われている。

スティーヴ・ペリーの加入により、バンドの方向性はそれまでにない劇的な変化を遂げることとなる。
ペリーの加入とヒット量産

スティーヴ・ペリーはジャーニーに加入する直前まではエイリアン・プロジェクトというバンドに参加していたが、メジャー・デビューのための契約を間近に控えた1977年の夏にベーシストを交通事故で失い、エイリアン・プロジェクトとしてのメジャー・デビューの話は白紙となった(ペリー曰く「バンドは急いで彼の代わりを捜したんだけど、僕にとっては彼無しではもう以前と同じようなバンド活動は続けられなくなってしまった」)。エイリアン・プロジェクトとしての活動が停止した後、ペリーは故郷に戻ってしばらく農場で働いていたが、実はその間にエイリアン・プロジェクトのデモ・テープが業界関係者を通じてハービー・ハーバートのもとに届いていた。それを聴いたハーバートは、その可能性を高く評価しペリーをジャーニーへ加入させた[注 2]

1978年、4作目のアルバム『インフィニティ』では前作までのプログレッシヴ系ロックバンドとしての作風も維持しつつ、それと伸びの良いヴォーカル・パートを生かした躍動感ある楽曲との和合が特色となり、その後のバンドの方向性を明確に示す。このアルバムは全米21位のヒットとなり、初のシングル・ヒット曲(「ホィール・イン・ザ・スカイ」)を獲得すると共にプラチナ・ディスクを初めて獲得した。

このアルバムのジャケットから、ジャーニーを象徴するアートワークとしてスカラベがデザインされるようになった。このモチーフは当初ジミ・ヘンドリックスのアルバムに使われる予定だったものがジミの死によってお蔵入りとなり、ジャーニーのエンブレムとして変形させたものである。スカラベは生まれ変わり、再生、輪廻、などを象徴しているとメンバーは語っている[10]

ダンバーはそれ以上のポップ化を図るバンド/マネジメントとそりが合わなくなり、脱退してジェファーソン・スターシップに移籍、新たなドラマーとしてスティーヴ・スミスが参加。ジャズの流れを汲む彼の演奏はハードロック的でポップな作風へとシフトしつつあったバンドの志向と合致し、1979年作の『エヴォリューション』アルバムでは全米チャート20位、続く1980年作の『ディパーチャー』では8位と更に勢いを増し、その中で歴代の代表曲となる「ラヴィン・タッチン・スクィーズィン」や「お気に召すまま」などのシングル・ヒットも記録。バンドはそれまで通りライヴ・ツアー主体の活動を続けつつ、より広範な聴衆と人気を獲得してゆくこととなる。また、前述『ディパーチャー』アルバムと同年に高田賢三が監督を務めた映画「夢、夢のあと」のオリジナルサウンドトラックも手がけた。

その後、結成メンバーの一人であったグレッグ・ローリーが心労などの理由から脱退し、オリジナルメンバーはショーンとヴァロリーの2人だけとなる。ローリーは後任のキーボーディストとして当時ジャーニーの前座を務めていたベイビーズのジョナサン・ケインを推薦した。ケイン自身はこの時すでにベイビーズの主要メンバーであった自らの責任とジャーニーでの可能性との狭間で苦悩したが、最終的にジャーニーを選んだ。シンセサイザー世代であるケインはメロディックな曲を書くソングライターとしての素質も持っており、ジャーニーの楽曲に幅広いレパートリーを与えた。また演奏面でもブルージーで官能的なグレッグとは全く異なる爽快なサウンドをジャーニーの楽曲に加味した。ギターも演奏できたケインはショーンの手ほどきでギタリストとしても才能を現し、ライヴにおいては時としてショーンをサポートする「もうひとりのギタリスト」として演奏するなど斬新な印象をバンドの作風に盛り込んだ。[注 3]
人気バンド

ニール・ショーン(ギター)、スティーヴ・ペリー(ボーカル)、ロス・ヴァロリー(ベース)、スティーヴ・スミス(ドラム)、ジョナサン・ケイン(キーボード)の5人体制となった。ヒット作となるアルバムがリリースされたのもこの時期である。1981年に発表されたアルバム『エスケイプ』は、全米1位を獲得。ライブ・ステージの音響担当からレコーディング・エンジニアに昇格したケヴィン・エルソン(このアルバムの前作である『ライブ・エナジー(原題:Caputured)』ではプロデュースを担当)とコンビを組んだ後に名プロデューサーと讚されるようになるマイク・ストーン(クイーンのプロデュースで一躍名を馳せたロイ・トーマス・ベイカーの愛弟子で、自らもクイーンの多くのアルバムでレコーディング・エンジニアを担当していた)、この2人の「生で演奏している音の雰囲気を殺さず音盤にする」力量が、レコード(当時)にはなかなか収め切れなかったライブ・バンドだったジャーニーの魅力を遺漏無く封じ込めることに成功したのも、彼らの出世を大きく後押ししたことは特記しておく必要があると思われる。なお、後にマイク・ストーンは、ジャーニーとの仕事で培ったレコーディングのノウハウをより洗練させエイジアの成功に大きく貢献した。金銭的に余裕が出来たからか、ニール・ショーンがヤン・ハマーとのものを皮切りに独自のプロジェクトを立ち上げる。

ちなみに、バンドの作品中日本で最も有名なバラードの一つである「オープン・アームズ」もこのアルバムに収録されているが、この曲はジョナサンがベイビーズ時代に書き起こしたものの、当時のバンドのボーカリストであるジョン・ウェイトの反対に遭い日の目を見ることのなかったものだ。シングルでジャーニー最高位のBillboard Hot 100で全米2位、キャッシュボックス、レコードワールド、ラジオ&レコーズでは全米1位、そしてのちにマライア・キャリーの手になるカバーのリバイバル・ヒットと、記録的な一曲になった。

続く1983年の『フロンティアーズ』も全米9週連続2位のメガヒットに輝く[注 4]。『フロンティアーズ』は『エスケイプ』の幻想的な作風からバラードのヒット曲路線を継承しつつも、よりハードロック志向の強い曲も収録し、バンドの強い個性が出ている1枚となった。
ペリーのソロ

この後、スティーヴ・ペリーは自身初のソロアルバム『ストリート・トーク』を発表し、さらにUSAフォー・アフリカにソロ・ミュージシャンとして参加。そしてニール・ショーンもまたソロ・プロジェクトの一環としてヤン・ハマーとの合作によるアルバムを発表。メンバー同士の不仲説が囁かれる中、再びジャーニーとしての活動に戻って次のアルバム『Raised On Radio?時を駆けて』の制作が始まった時、ロス・ヴァロリーは参加せず、スティーヴ・スミスも一部の楽曲のみの参加であった。スミスは『エスケイプ』発表当時から自身のフュージョン・プロジェクトVital Informationを開始しており、ジャーニーでの成功によって金銭面の心配が無くなったのも手伝い、いわく「本腰を入れて取り組みたかった」というジャズに没頭すべくジャーニーを脱退したと言われている[注 5]

そして1986年にリリースされたニュー・アルバム『Raised On Radio?時を駆けて』ではスティーヴ・ペリー、ニール・ショーン、そしてジョナサン・ケインの3人だけが正式メンバーとしてクレジットされており、アルバム制作およびライヴ・ツアーにおいてはオーディション等を経て起用された臨時メンバー(詳細は後述「サポート・メンバー」の項を参照)が参加していた。このアルバムは過去最多となる5曲のヒット・シングルを生んだ。後年のライヴでも代表曲のひとつとして演奏されることが多い「トゥ・ユアセルフ(Be good to yourself)」はこのアルバムが初出である。その他、ラジオによって育まれたというメンバーそれぞれの音楽心をアルバムのテーマとしていたことから、従来にない試みとしてサックスを導入した楽曲(2曲目の『ポジティヴ・タッチ』)[注 6]なども含まれていた。


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