ジャン1世_(ブルゴーニュ公)
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オルレアン公は9月2日になって、これに反論し、その結果、ジャン無怖公との対立は一触即発の状態となった[10]。シャルル6世とオルレアン公ルイのおじのベリー公ジャン1世ブルボン公ルイ2世ら、宮廷内にも動揺が走り、同年10月16日に無怖公とオルレアン公は和解し、軍勢を解散(解雇)した[11]
アルマニャック派との内戦詳細は「アルマニャック・ブルゴーニュ内戦(英語版)」および「オルレアン公ルイ1世の暗殺(英語版)」を参照

ブルゴーニュ派は、ついに1407年11月23日、に巻き返しを図ったオルレアン公を暗殺した(オルレアン公ルイ1世の暗殺(英語版))。ジャン無怖公は、翌日執り行われたオルレアン公の葬儀でも取り乱した様子は無かったが、暗殺2日後に伯父のベリー公に「悪魔にそそのかされて、この人殺しをさせてしまった」と打ち明けるや、フランドルへ出奔した[12]。中世史学者のジョゼフ・カルメット(フランス語版)によれば、これは「逃亡」ではなく、捜査を待たないという意思表示であり、敵味方問わず「自分のいない所で」ことを決める余裕を残そうと、先手を打った行動であると考えられている[12]

総じてオルレアン公の評判は芳しくなく[13]、一方、無怖公は宣伝工作に長けていた[14]。翌1408年2月末、無怖公は群衆の歓呼に迎えられてパリへ戻る[15]。3月の公開弁論では、父王の代理である王太子ギュイエンヌ公ルイの前で「暴君オルレアン公」殺害を公式に礼賛させて自己弁護を押し通すと[16]、国王シャルル6世からの赦免を勝ち取る[17]
ブルゴーニュ派アルマニャック派の系図


ジャン2世(善良王)                 

                         
                     
シャルル5世(賢明王)        (ベリー公
ジャン1世     (ブルゴーニュ公
フィリップ2世(豪胆公) 

                           
         
シャルル6世(狂気王) イザボー (オルレアン公
ルイボンヌ (アルマニャック伯)
ベルナール7世 ジャン1世(無怖公)   
    
                         

  シャルル7世(勝利王)   シャルル  ボンヌ   フィリップ3世(善良公)
  

1409年にはオルレアン公の息子で公位を継いだシャルルと和睦、王太子の後見人に収まり政府の実権を握った[18]

その間、無怖公は1408年7月にネーデルラントへ遠征、義弟に当たるバイエルン公兼エノー伯ヴィルヘルム2世の弟であるリエージュ司教ヨハンとリエージュ市民が対立し市民の反乱が勃発、9月までに無怖公は反乱を鎮圧(オテの戦い(英語版))して10月にパリへ戻った。留守中のパリはイザボーらオルレアン派が反撃を考えていたが、ブルゴーニュ軍が来ると逼塞、1409年の和睦まで目立った動きは無かった[19]

しかし、無怖公の強引な権力掌握に納得いかないオルレアン公は復讐を誓い、舅であるアルマニャック伯ベルナール7世ベリー公ジャン1世などを頼り、1410年アルマニャック派を結成しブルゴーニュ派に対抗、翌1411年7月に武力衝突となり両派の対立が激化した。両派はパリの支配とシャルル6世・イザボー・王太子を奪い合ったが、イングランドの支援を取り付けた無怖公が同年10月にパリを奪いアルマニャック派を反逆者にするシャルル6世の命令も引き出して主導権を握った。

しかし1412年5月にイングランドとアルマニャック派の同盟が結ばれブルゴーニュ派は手を切られ、8月に一転してブルゴーニュ派とアルマニャック派が一時的に和睦したためイングランドが縁を切られた。1413年4月末にブルゴーニュ派の屠殺業者シモン・カボシュ(フランス語版)(シモン・ル・クートリエ)とパリ大学ピエール・コーションがパリ市民を扇動して暴動(カボシュの反乱(フランス語版))を起こすと、虐殺に反発した国王・王太子がアルマニャック派に救援を求め、8月にカボシュ・コーションらは追放、市民の統制に失敗した無怖公もフランドルへ退去した。この隙にパリを制圧したアルマニャック派がコンピエーニュソワソンなどブルゴーニュ派の都市を陥落させたが、イングランドと無怖公の結びつきを恐れブルゴーニュ派とアルマニャック派は1414年9月にアラスで和睦(フランス語版)した。内乱の最中に両派は再びイングランドに接近したが、アラスの和睦でイングランド援助の必要が無くなったため交渉は消滅、埒が明かないと見たイングランド王ヘンリー5世1415年8月に内乱を好機と捉え、百年戦争を再開・フランスへ侵攻して来た[20]
百年戦争での動向

アルマニャック派を中心とするフランス軍は10月25日アジャンクールの戦いで大敗、フランスは一層混乱に陥った。無怖公はアルマニャック派へ援軍提供を申し込んだが拒否されたため軍を自領の防衛に留めた[注釈 1]。さらに戦後にルイ王太子とベリー公も死亡し、新たな王太子にルイの弟ジャンが立てられた。無怖公の姪ジャクリーヌ・ド・エノーを妻にしていたことからジャンと接触を図ったが、ジャン王太子も1417年4月に早世したため振り出しに戻った。アルマニャック派は、新たにシャルル王太子(後のシャルル7世)を擁立した[21]

イングランドはフランス侵略を進めながら無怖公へ接触するが、無怖公の動きは曖昧で分かり辛くなっていく。1416年10月に会見したヘンリー5世と無怖公が取り付けた秘密交渉で無怖公はヘンリー5世のフランス王位継承権を認め極秘援助も約束したが、シャルル6世に反抗せず表立って宮廷と敵対しない道を選んだからである。しかしアルマニャック派との対立は継続しパリの様子を眺めたが、1417年にアルマニャック派と対立してパリを退去したイザボーを11月に保護、トロワで彼女を擁立した政権を樹立した[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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