1404年4月27日、父のフィリップ豪胆公が逝去した。豪胆公の葬儀の翌日、新たなブルゴーニュ公であるジャン無怖公は、ディジョンへの入市式
(英語版)を執り行い、一連の儀式と共に、豪胆公が取り決めた、娘マルグリットとフランス王太子:ギュイエンヌ公ルイの婚約式も挙行した[2]。ここに無怖公が望むと望まざるに関わらず、無怖公の従弟であり「先王シャルル5世の子」「現王シャルル6世の唯一の男兄弟」であるオルレアン公ルイとの対立が表面化した[6]。さらに1405年3月21日、母のフランドル女伯マルグリット3世が急逝すると、フランス国王に改めて臣従の礼を捧げるためパリ訪問の機会が訪れる[7]。折しも6月にカレーを包囲したもののフランス政府が援助を断ったことを機に[8]、ジャン無怖公が5000名の兵を引き連れて、パリに向かうと、王妃イザボー・ド・バヴィエールと王弟オルレアン公ルイは、国王シャルル6世(狂気王)をパリに残して逃亡した[7]。王妃と王弟は、王妃の兄ルートヴィヒ(仏:ルイ)の護衛させた王太子夫妻をも自らに合流させようとしていた[7]。同年8月19日、無怖公の一行はパリを通過し、王妃と王弟を追跡する[7]。無怖公の配下が王太子夫妻に追いつき、ブルゴーニュ側の護衛を付けてパリに連れ戻すことに成功する[9]。以後無怖公は、政府の攻撃と改革を旗印にパリ市民を味方につけ、合わせて軍を動かし圧力をかける手法を活用していくことになる。
8月26日、フランドル伯として兄ジャン無怖公が、ルテル伯として弟アントワーヌが、それぞれ国王シャルル6世に対し臣従の礼を捧げた[9]。さらに高等法院や会計法院に対して、王弟オルレアン公の推進した重税や「王太子夫妻誘拐」等に対する改革を提言した[9]。オルレアン公は9月2日になって、これに反論し、その結果、ジャン無怖公との対立は一触即発の状態となった[10]。シャルル6世とオルレアン公ルイのおじのベリー公ジャン1世やブルボン公ルイ2世ら、宮廷内にも動揺が走り、同年10月16日に無怖公とオルレアン公は和解し、軍勢を解散(解雇)した[11]。