ジャン=ルー・ダバディ
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背景・教育

ジャン=ルー・ダバディは1938年9月27日、パリに生まれた。一人っ子で、父マルセル・ダバディ(Marcel Dabadie)はジャン=ルー・ダバディと同じく作詞家・劇作家で、モーリス・シュヴァリエ、ジャック兄弟(フランス語版)、ジュリアン・クレールなどの曲の歌詞や、彼らが出演する映画・寸劇の台詞を書いていた[3][4][5]

翌1939年に第二次大戦が勃発し、出征した父がドイツで捕虜になると、母マッダレーナ(Maddalena)とともにイゼール県グルノーブルに隣接するラ・トロンシュ(フランス語版)の父方の祖父母のもとに身を寄せた[4][5][6]。戦後、両親はパリで生活を再開したが、ダバディは祖父母に育てられ、特に音楽が好きな祖父の影響を受けた[6]

1950年にパリの両親のもとに戻り、19区のリセ・ジャンソン=ド=サイイ(フランス語版)に入学。文学が好きな優秀な学生で、早くも14歳でフランス語ラテン語ギリシア語バカロレアを取得し、リセ・ルイ=ル=グラングランゼコール準備級に進んだ[4][5][6][7]ソルボンヌ大学に学び[7][8]、文学の学士号を取得した[9]

18歳のときに、ジャン・ヴィラール(フランス語版)が主宰していたアヴィニョン演劇祭の国立民衆劇場(フランス語版)(TNP)で研修生として学ぶ機会を得た[7]。ヴィラールは1951年にジェラール・フィリップ、マリア・カザレス(フランス語版)らの優れた俳優を迎えて劇団を結成し、古典劇の新解釈と現代劇の紹介によってアヴィニョン演劇祭を成功に導いた人物であり[10]、ダバディは彼らとの活動を通して演劇への関心を深めることになった[7]
小説家・ジャーナリストとして

リセ・ルイ=ル=グランに学んでいた頃から小説を書き始め、複数の出版社に送っていたが、最初の小説『乾いた眼』を書き上げたのは19歳のときで、20歳のときにスイユ出版社から刊行された。翌年には第二作『家庭の神々』を同じくスイユ社から発表した。これらの作品が『アール・ゼ・スペクタクル(Arts et Spectacles)』誌編集部の目に留まり、同誌に寄稿し始めた。さらにジャーナリストのピエール・ラザレフ(フランス語版)がダバディの小説と雑誌掲載の記事を読んで、自ら創設した出版グループ「フランパール(Frampar)」に採用し[5][7]、ラザレフ主宰の『ヌーヴォー・カンディッド(Le Nouveau Candide)』や、同じスイユ社から作品を発表し始めたばかりの若手作家フィリップ・ソレルス、ジャン=エデルン・アリエ(フランス語版)らによって1960年に創刊された『テル・ケル』誌などにルポルタージュ美術評論を寄稿し、ジャーナリストとして本格的に活動を開始した[4][8][11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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