ジャン=ポール・サルトル
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この結婚は、結婚関係を維持しつつお互いの自由恋愛を保障するなど前衛的なものであったが、結果的には幾度かの波乱はあったものの、ジャン=ポール・サルトルが逝去するまでの50年間以上に渡りこの関係は維持された[2]

1931年ルアーブルのリセの哲学科で教師となる。「真理伝説」を執筆、この本は20ページ程の本であった。出版しようとしたが、知識のみで描かれた本で説得力に乏しい本であったため、出版は拒否された。1933年から1934年にかけてベルリンに留学し、現象学を学ぶ。

1935年、想像力についての実験のため、友人の医師・ラガッシュによってメスカリン注射を受ける。サルトルはこの際に全身をカニやタコが這いまわる幻覚に襲われ、以降も幻覚を伴う鬱症状に半年以上悩まされることになる。甲殻類に対する恐怖は生涯続いた。

レイモン・アロンとの会話によりエドムント・フッサール現象学に興味を持ち、エマニュエル・レヴィナスの博士論文『フッサール現象学の直観理論』(La theorie de l'intuition dans la phenomenologie de Husserl)を読み、ベルリンに留学した際には現象学の研究と『嘔吐』の執筆を並行して行う。その後、1936年から1939年にかけてル・アーヴルやパリで教鞭を執る傍ら、哲学・文学両面にわたる執筆活動を行い、1938年には小説『嘔吐』を出版して名声を博した。

第二次世界大戦のため兵役召集されるが、1940年捕虜となったのち、1941年に偽の身体障害証明書によって、収容所を釈放された。その間に戯曲『バリオナ』が書かれる。

1943年、主著『存在と無』を出版する。『存在と無』は副題に「現象学的存在論の試み」と銘打たれているとおりにフッサール現象学とマルティン・ハイデッガー存在論に色濃く影響されている。

戦争体験を通じて次第に政治的関心を強めていったサルトルは、1945年にはボーヴォワールやメルロー=ポンティらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行する。以後、著作活動の多くはこの雑誌を中心に発表されることになる。評論や小説、劇作を通じて、戦後、サルトルの実存主義は世界中を席巻することになり、特にフランスにおいては絶大な影響力を持った。

徐々にサルトルはマルクス主義に傾倒し、一旦は諸外国へ軍事侵攻を行う前のソ連を擁護する姿勢を打ち出していた。これがアルベール・カミュやメルロー=ポンティとの決別の原因のひとつとなった。

1952年8月、カミュが『反抗的人間』に対するジャンソンの批判に抗議したのに対して、「アルベール・カミュに答える」を書く(いわゆる「カミュ=サルトル論争 」)。この論争によって二人は完全に決裂した[3]1955年に北京でシモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトルキューバを訪問し、ボーヴォワールと共にチェ・ゲバラと会談するサルトル(1960年)。
サルトルはゲバラ最後の戦場となったボリビアでの革命運動での死亡まで、このアルゼンチン出身の革命思想家に支持を寄せた。1967年。サルトル(前列左から2人目)の右側の女性がシモーヌ・ド・ボーヴォワールモンパルナス墓地にあるサルトルとボーヴォワールの墓

構造主義が台頭しはじめると、次第にサルトルの実存主義は「主体偏重の思想である」として批判の対象になる。とりわけクロード・レヴィ=ストロースが、1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」において行ったサルトル批判は痛烈なものであった。しかしながら、当時の「構造主義ブーム」の中でレヴィ=ストロースによるサルトル批判の妥当性が充分に検証されたとは言いがたい。後に竹内芳郎は『マルクス主義の運命』(解題)の中で「レヴィ=ストロースは『弁証法的理性批判』について何一つ理解しておらず、サルトルへの批判は的外れだった」という趣旨の見解を述べている(ここでレヴィ=ストロースが批判の対象としたサルトルの著作は『弁証法的理性批判』であったが、その内容については「思想」(後述)を参照されたい)。

その後、サルトルはアンガジェ / アンガージュマン(政治参加もしくは社会参加)の知識人として、自らの政治的立場をより鮮明に打ち出し、アルジェリア戦争の際にはフランスからの独立を目指す民族解放戦線(FLN)を支持する。アルジェリア独立後もサルトルはキューバ革命後のキューバの革命政権を支持するなど脱植民地化時代における第三世界の民族解放運動への支持は一貫していたが、ソ連の立場を概ね支持しながらも、ソ連派の共産党には加入せず、ソ連による1956年ハンガリー侵攻1968年プラハの春に対する軍事介入には批判の声をあげた。やがてソ連への擁護姿勢を改め、反スターリン主義毛沢東主義者主導の学生運動を支持するなど独自の政治路線を展開していく。しかし、左派陣営内であったことはかわりがない。

1964年、ジャン=ポール・サルトルは、ノーベル文学賞に選出されたが、「作家は自分を生きた制度にすることを拒絶しなければならない」として受賞を拒否・辞退して式を欠席した[4]。このときは、候補に挙がっていたことを知ってあらかじめ辞退の書簡をノーベル委員会に送付していたが、書簡の到着が遅れたためノーベル賞受賞決定後に辞退することとなった[5][注釈 4]。なお、サルトルは公的な賞をすべて辞退しており、この数年前にはレジオンドヌール勲章も辞退している[7]。1966年9月18日には、ボーヴォワールとともに来日し、知識人のありかたに関し講演するなどした(-10月16日)。

1973年2月3日には、ベニ・レヴィ、セルジュ・ジュリとともに左派日刊紙リベラシオン」を創刊する[8]。このリベラシオン紙はフランスの主要日刊紙の一つとなった。

1973年には激しい発作に襲われ、さまざまな活動を制限することになる。また、斜視であった右目は3歳からほぼ失明していたが、残る左目からの眼底出血により、この時期に両目とも失明する。ただし、光、ものの形、色までは視えると1975年にインタビューで語る(『シチュアシオン]』所収「70歳の自画像」)。失明によりギュスターヴ・フローベールの評伝(『家の馬鹿息子』)の完成の不可能を悟る。ボーヴォワールとの対話の録音を開始する(のち、『別れの儀式』に収録)。晩年、自力による執筆が不可能となったサルトルは「共同作業」によっていくつかの著作を完成させようとするが、いずれの試みも失敗に終わっている。特にユダヤ人哲学者ベニ・レヴィと取り組んだ、ユダヤ教思想に影響を受けた倫理学についての著作には意気込みを示し、「いま、希望とは( L'espoir maintenant)」と題されたレヴィとの対話記録を新聞に発表していた。「いま、希望とは」ではかつての主体を重視した実存主義思想から大きな転換がはかられていた。その転換に戸惑ったボーヴォワールはこの対話を、レヴィが加齢により判断力を失ったサルトルをかどわかし書かせたものだとし、取り消しを迫ったが、サルトルはこれは歴とした自身の思想であるとして退けた。また、この時期に作家フランソワーズ・サガンとの交流があったことが、サガンの「私自身のための優しい回想」に記されている。

1980年、肺水腫により74年の生涯を閉じたときにはおよそ5万人がその死を弔った(その群集の中にはベルナール=アンリ・レヴィミシェル・フーコーもいた)。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されている。サルトルの死後、主にボーヴォワールおよび養女である アルレット・エル・カイム(Arlette Elkaim。34歳年下で1956年以降愛人、1965年に養女、遺言執行人)らの編集により多数の著作が出版された。
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