ジャン=ポール・サルトル
[Wikipedia|▼Menu]

1928年アグレガシオン(1級教員資格)(哲学)試験に落第する。ジャン=ポール・サルトルがアグレガシオン試験に落第した事実は、彼を知るものを驚かせた。翌年、ジャン=ポール・サルトルはアグレガシオン試験を首席の成績で合格する。ニザンも同じ1929年に合格した(哲学)。このころ、同試験の次席(哲学)であり、生涯の伴侶となるシモーヌ・ド・ボーヴォワールと知り合い、1929年には2年間の契約結婚を結んでいる。この結婚は、結婚関係を維持しつつお互いの自由恋愛を保障するなど前衛的なものであったが、結果的には幾度かの波乱はあったものの、ジャン=ポール・サルトルが逝去するまでの50年間以上に渡りこの関係は維持された[2]

1931年ルアーブルのリセの哲学科で教師となる。「真理伝説」を執筆、この本は20ページ程の本であった。出版しようとしたが、知識のみで描かれた本で説得力に乏しい本であったため、出版は拒否された。1933年から1934年にかけてベルリンに留学し、現象学を学ぶ。

1935年、想像力についての実験のため、友人の医師・ラガッシュによってメスカリン注射を受ける。サルトルはこの際に全身をカニやタコが這いまわる幻覚に襲われ、以降も幻覚を伴う鬱症状に半年以上悩まされることになる。甲殻類に対する恐怖は生涯続いた。

レイモン・アロンとの会話によりエドムント・フッサール現象学に興味を持ち、エマニュエル・レヴィナスの博士論文『フッサール現象学の直観理論』(La theorie de l'intuition dans la phenomenologie de Husserl)を読み、ベルリンに留学した際には現象学の研究と『嘔吐』の執筆を並行して行う。その後、1936年から1939年にかけてル・アーヴルやパリで教鞭を執る傍ら、哲学・文学両面にわたる執筆活動を行い、1938年には小説『嘔吐』を出版して名声を博した。

第二次世界大戦のため兵役召集されるが、1940年捕虜となったのち、1941年に偽の身体障害証明書によって、収容所を釈放された。その間に戯曲『バリオナ』が書かれる。

1943年、主著『存在と無』を出版する。『存在と無』は副題に「現象学的存在論の試み」と銘打たれているとおりにフッサール現象学とマルティン・ハイデッガー存在論に色濃く影響されている。

戦争体験を通じて次第に政治的関心を強めていったサルトルは、1945年にはボーヴォワールやメルロー=ポンティらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を発行する。以後、著作活動の多くはこの雑誌を中心に発表されることになる。評論や小説、劇作を通じて、戦後、サルトルの実存主義は世界中を席巻することになり、特にフランスにおいては絶大な影響力を持った。

徐々にサルトルはマルクス主義に傾倒し、一旦は諸外国へ軍事侵攻を行う前のソ連を擁護する姿勢を打ち出していた。これがアルベール・カミュやメルロー=ポンティとの決別の原因のひとつとなった。

1952年8月、カミュが『反抗的人間』に対するジャンソンの批判に抗議したのに対して、「アルベール・カミュに答える」を書く(いわゆる「カミュ=サルトル論争 」)。この論争によって二人は完全に決裂した[3]1955年に北京でシモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトルキューバを訪問し、ボーヴォワールと共にチェ・ゲバラと会談するサルトル(1960年)。
サルトルはゲバラ最後の戦場となったボリビアでの革命運動での死亡まで、このアルゼンチン出身の革命思想家に支持を寄せた。1967年。サルトル(前列左から2人目)の右側の女性がシモーヌ・ド・ボーヴォワールモンパルナス墓地にあるサルトルとボーヴォワールの墓

構造主義が台頭しはじめると、次第にサルトルの実存主義は「主体偏重の思想である」として批判の対象になる。とりわけクロード・レヴィ=ストロースが、1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」において行ったサルトル批判は痛烈なものであった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:83 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef