1803年の11月30日からサン=ドマング総督の座に就いていたデサリーヌは、1804年1月1日ゴナイーヴで公式に植民地の独立を宣言し、国名をハイチに改め、終身総督となった。1804年9月22日デサリーヌはハイチ帝国皇帝となり、10月6日にカパイシャンでジャック1世として戴冠式を行った。1805年5月20日帝国憲法が公布され、ジャック1世を後継者指名権付きの終身皇帝に指名した。
ジャック1世は奴隷制なしで砂糖のプランテーション及び工場を維持するために大変な努力をした。
彼は奴隷として生まれ、フランス人に怨みを抱いていた。彼は権力を握ると、数世紀に渡る蛮行への報復と、黒人の国であるハイチが再び奴隷制に戻ることへの脅威から、全てのフランス人の処刑を求めた。皇帝はハイチを黒人国家であると宣言し、白人が資産や土地を所有することを禁じた。この法律はハイチの誇りの象徴である。
ジャック1世は歴史家に caporalisme agraire (農業軍事主義)と記されたようにプランテーション労働を厳しく推し進めた。彼は全ての黒人に兵士として国を守るか農園や畑で働くかどちらかを求めた。
皇帝はまた貿易の規制を信じた。砂糖とコーヒーの輸出に依存したハイチにとってそれは不可欠であった。彼はフランスよりもイギリスや米国との貿易を望んでいた。
統治にあたって、ジャック1世は読み書きができて教育のある人材を将校や経営に求めた。そのような配置を行うと明るい肌のエリート(ムラート)がそのような地位を独占した。
崩御と記念物銅像(カパイシャン)
ペションやクリストフを含むジャック1世の政権に不満を持つ者たちが皇帝を倒すために陰謀を始めた。1806年10月17日ジャック1世は反乱鎮圧に向かう途上の首都ポルトープランスの北のポン=ラルナージュ(現在はポン=ルージュとして知られる)で暗殺された。複数の歴史家はジャック1世は実際にはランテルマン通りのペションの家で国の権力と将来について協議した後に殺されたと主張している。ポルトープランスの北の玄関口には皇帝が殺された場所の記念碑が作られた。
複雑な出自のデフィレという女性が皇帝の刻まれた遺体を葬った。数世代のハイチ人にとって悪口の対象であったジャック1世は20世紀になって再評価され、名門の経歴およびナショナリズムの象徴として扱われるようになった。
ハイチの国歌「デサリーヌの歌」はデサリーヌ市同様ジャック1世を記念している。また、2004年より250グールド紙幣に肖像が使用されている。
脚注^ “ ⇒Independent Haiti”. 2006年11月27日閲覧。
^ “ ⇒Chapter 6 - Haiti: Historical Setting”. Country Studies. Library of Congress. 2006年9月18日閲覧。
TiCam (2006-09-27). ⇒"October 17: Death of Dessalines". haitiwebs.com. 2006年10月16日 閲覧。
Schutt-Aine, Patricia; Staff of Librairie Au Service de la Culture (1994). Haiti: A Basic Reference Book. Miami, Florida: Librairie Au Service de la Culture, 33-35, 60. ISBN 0-9638599-0-0.
外部リンク
The Louverture Project: Jean-Jacques Dessalines
先代
―ハイチの国家元首
1804 - 1806次代
ハイチ国(北部)大統領
アンリ・クリストフ
ハイチ共和国(南部)大統領
アレクサンドル・ペション
先代
―ハイチの君主
1804 - 1806次代
ハイチ王国国王
アンリ1世
先代
―ハイチ帝国皇帝
1804 - 1806次代
フォースタン1世
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