ジャン・ジロー
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公立学校卒業したジローは、16歳のときに通信制の美術講座エコール・アーベーセーに登録し、その後パリ装飾美術学校に入学、タピスリー科に入る[2][注釈 3]。在学中の1956年、『ファー・ウェスト』誌に「フランクとジェレミー」が掲載され、以後1958年にかけて『シッティング・ブル』誌、『フリプネとマリゼット』誌、『クール・ヴァイヤン』誌などにウェスタンもの・ユーモアものの作品を発表した。当時のジローのスタイルはその後に弟子入りするジジェ(フランス語版)の作風に強く影響されたものであった[10]。17歳のころ、学校を休学したジローは、再婚してメキシコに移住していた母親をたずねて同地を訪れ、ここで8ヶ月間をすごした。19世紀の西部劇の世界がまだ残っていたメキシコ滞在の経験は、ジローの西部劇への興味を強めるとともに、のちの「メビウス」としての作品にも様々な面で影響を及ぼしており、彼の自己形成に重要な意味を持つことになった[2][11]。またメキシコではのちの作家活動において影響を受けることになるアメリカの漫画雑誌『マッド』をはじめて目にしている。

帰国後の1958年、装飾学校での同窓生であったジャン=クロード・メジエールとともに、当時スター作家であったジジェのもとを訪れる。その後兵役について2年半のあいだドイツアルジェリアに滞在[2]。在軍中に軍事雑誌『5/5 Forces Francaises』の製作に協力する[12]。帰国後の1961年、再びジジェを訪れて彼のアシスタントとなり、ジジェの西部劇作品『ジェリー・スプリング』(『ピロット(フランス語版)』誌)の1エピソード「コロナド街道」のペン入れを1年ほどのあいだ担当した[13]。ジジェのもとでは絵の技術にとどまらず、絵に向き合う描き手としての姿勢といった根本的な部分についても多くを学んだという[14][注釈 4]
初期「メビウス」と『ブルーベリー』

ジジェのアシスタントを務めた後、ジローはアシェット社の事典『文明の歴史』の挿絵をメジエールとともに手がけていたが、しだいに漫画を描きたいという気持ちが高まり、過激な風刺雑誌として知られていた『アラキリ(フランス語版)』誌に持ち込みをはじめた[13]。1963年、同誌第28号に「21世紀の人間」が掲載され、これによってジローは「メビウス」として新たなデビューを飾った[13][16]。また前年に『ピロット』誌の中心人物であったジャン=ミシェル・シャルリエ(フランス語版)と出会っていたジローは、1963年の『ピロット』210号より、シャルリエを原作とするジャン・ジロー名義の[注釈 5]西部劇作品『ナヴァホ砦』(のち『ブルーベリー(フランス語版)』第1巻となる)の連載を開始した。その後、ジローは『ナヴァホ砦』と平行して『アラキリ』誌にメビウス名義によるいくつかの短編作品を発表している。当時の「メビウス」の作風はのちのそれとは違い、前述の『マッド』などによるアメリカのアンダーグラウンド・コミックスの影響を強く受けたものであった[16][注釈 6]。しかし1964年、「メビウス」としての創作が行き詰まり(インタビューでは「ある日突然、まったく一本の線すら描けなくなってしまった」と述べている[18])、『アラキリ』創刊者でもあったフランソワ・カヴァナに恫喝まがいの言葉で引き止められながらもやむなく「メビウス」としての活動を一切やめ[18]、以後10年の間「ジャン・ジロー」としての仕事に没頭することになった。

1965年に第一巻『ナヴァホ砦』が刊行された『ブルーベリー』シリーズは、すでに雑誌掲載中から人気を博しており、やがてバンドデシネのウェスタンものを代表する作品のひとつとなっていった[19]。このシリーズは南北戦争直後を時代背景として、複雑な過去をもつ北軍の中尉ブルーベリーの様々な冒険を描いてゆくもので、「メビウス」のそれとは違い伝統的なコミックの技法に則って描かれている[18][20]。当初その作風は師匠のジジェに強く影響されたものであり、そのためジローが『ブルーベリー』第4作「行方知れずの騎兵」を執筆中に一時アメリカに失踪したときには、ジジェがその代筆を行うことが可能であった[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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