ジャン・シベリウス
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1904年にヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに自邸アイノラを建てる[1]

1908年に喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。

1915年、シベリウス50歳の誕生日。この記念行事のために交響曲第5番が作曲された[1]

1915年頃には既にフリーメイソンのメンバーだった。

1923年交響曲第6番作品104、1924年交響曲第7番作品105、1925年の交響詩『タピオラ』作品112を頂点にして、以後重要な作品はほとんど発表されなくなった。

1957年にヤルヴェンパーで脳出血により逝去。91歳没。ヘルシンキ大聖堂国葬が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた[1]

その後彼の肖像は、ユーロ導入までのフィンランド100マルッカ紙幣に使用された。

生涯11歳のシベリウス 1876年
幼少期

1865年12月8日、ロシア帝国の自治領であったフィンランド大公国ハメーンリンナに生を受けた。スウェーデン語話者の医師クリスティアン・グスタフ・シベリウスとマリア・カルロッタ・シベリウス(旧姓ボーリ Borg)の間に生まれた子であった。姓は父方の曽祖父が所有していた東ウーシマー県の地所シッベ(Sibbe)に由来している[7]。父は1868年7月に腸チフスによりこの世を去り、あとには多額の借金が遺された。そのため、当時妊娠していた母は所有していた不動産を売却し、同じくハメーンリンナで夫に先立たれて暮らしていた彼女の母親、カタリーナ・ボーリの家に一家で身を寄せねばならなかった[8]。こうしてシベリウスは完全な女性中心の環境に育つことになる。唯一、男性的な影響を与えたのはおじのペール・フェルディナンド・シベリウス(Pehr Ferdinand -)であり、彼は音楽、とりわけヴァイオリンに関心を持っていた。彼こそが10歳になった少年にヴァイオリンを与え、後に作曲への興味を持ち続けるよう激励した人物だった[9][10]。シベリウスにとって、おじのペールは父親代わりだったのみならず音楽上の助言者でもあったのである[11]

幼少期からシベリウスは自然に強い関心を示し、家族で夏季をロヴィーサの海岸沿いで過ごしにやってくると頻繁に田舎を歩き回りに出かけていた。彼自身の言葉が残っている。「私にとってロヴィーサは太陽と幸福の象徴だった。ハメーンリンナは学校へ行く場所、ロヴィーサは自由な場所だった。」ハメーンリンナでは彼が7歳になるとおばのユリア(Julia)が家にあったアップライトピアノで彼にピアノを教えることになるが、間違った音符を弾くといつも拳をコツンと叩いた。シベリウスは即興演奏によって上達を見せたが、音楽を解釈する勉強も続けた[12]。後に転向することになるヴァイオリンの方が彼の好みにはあっていた。姉のリンダがピアノ、弟のクリスチャンがチェロを弾いて三重奏を行うこともあった[注 1][13]。さらに近所の家々を交えて四重奏を行うこともあり、これによって室内楽の経験を培った。この時期の彼の作品として三重奏が1曲、ピアノ四重奏が1曲、ヴァイオリンとピアノのための『組曲 ニ短調』の断片が現存している[14]。1881年頃、彼はヴァイオリンとチェロのための短いピッツィカートの楽曲『水滴』(Vattendroppar)を紙に書き残している。ただし、これは単に音楽の訓練であった可能性もある[11][15]。初めて自分が作曲していると言及しているのは1883年8月の手紙の中であり、そこでは三重奏を書き上げて他の曲に取り組んでいると述べている。「両方とも少々お粗末な出来ですが、雨の日々にもやることがあるのはよいことです[16]。」1881年に地元の楽長であったグスタフ・レヴァンダー(Gustaf Levander)からヴァイオリンの指導を受けるようになり、すぐさまこの楽器に強い関心を抱くようになる[17]。偉大なヴァイオリンのヴィルトゥオーソになると心に決め、たちまち腕利きの奏者として頭角を現した。1886年にフェルディナンド・ダヴィッドのホ短調の協奏曲を演奏、翌年にはヘルシンキでメンデルスゾーンヴァイオリン協奏曲から後半2楽章を演奏している。こうした器楽奏者としての成功にもかかわらず、彼は最終的に作曲家としての道を選ぶのである[18][19]

母語はスウェーデン語であったが、シベリウスは1874年にルチナ・ハグマン(Lucina Hagman)のフィンランド語で学ぶ予科校に入学した。1876年にはフィンランド語によるハメーンリンナの学校への進学を許可された。数学と植物学の成績は非常に良かったものの、彼は幾分ぼんやりした学生だった[16]。留年しながらも1885年に学校の最終試験に合格し、これによって大学への入学資格を得た[20]。少年時代の彼はヨハンの口語体にあたるヤンネという名前で知られていた。しかし学生時代に船乗りのおじの名刺に触発されてフランス語風のジャンを名乗るようになる。以降、彼はジャン・シベリウスとして知られるようになる[21]
初期フィンランドでシベリウスを教えたマルティン・ヴェゲリウス

1885年の高校卒業後、ヘルシンキ大学に進学したシベリウスは法学を学び始めるが、音楽への興味の方が圧倒的に大きかったためすぐさまヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)に転入して1885年から1889年まで同校で学ぶ。彼の指導陣の中には音楽院の創設者のひとりで、フィンランドの教育の発展に大きく貢献したマルティン・ヴェゲリウスがいた。独学だったシベリウスにはじめて正式に作曲を教えたのは彼であった[22]。他に重要な影響を与えた人物はシベリウスを教えたピアニスト兼作曲家のフェルッチョ・ブゾーニであり、2人は生涯にわたる友情を育んだ[23]。彼の近しい友人の集まりにはピアニストで文筆家のアドルフ・パウル、指揮者となるアルマス・ヤルネフェルトもいた[注 2][11]。この時期の主要作品にはグリーグを想わせるところのあるヴァイオリンソナタ ヘ長調がある[24]

シベリウスは続いてベルリンへ赴きアルベルト・ベッカーに(1889年-1890年)、さらにウィーンへ移ってロベルト・フックス、そしてカール・ゴルトマルクに師事して(1890年-1891年)研鑽を積んだ。ベルリンではリヒャルト・シュトラウス交響詩ドン・ファン』の初演をはじめとした多様な演奏会やオペラに足を運び音楽の見識を広める機会に恵まれた。


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