ジャン・アンリ・ファーブル
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しかしファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになった。また、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}古くからの昆虫愛好文化をもつ[要出典]日本でも読まれ、昆虫学の普及に役立った。
経歴ナダールの撮影によるアンリ・ファーブル

ファーブルは、ギリシア、ローマ、パレスチナ、サラセンの文化に培われたプロヴァンスの地に生涯を送った[2]
サン・レオン ? トゥールーズ ? モンペリエ

ファーブルの父方の祖父は、羊飼いや小作人を抱えたそれなりの経営規模の自作農であったが、そこから自立して農場を離れた父のアントワーヌ・ファーブルは定職に就けず、様々な手伝い仕事を転々とした。母のヴィクトワール・ジョルゲは、大規模な自作農であった妻の実家サルグ家に経済的援助をあおぎ、妻の婦人用皮手袋作りの内職で生計を立てるなど一家の生活は貧しかった。サン・レオンの家で生まれた。ファーブルは4歳から7歳までの間、弟のフレデリックの育児や母の内職を妨げないために、20km程離れた父の郷里マラヴァルの祖父の家に預けられた。自然豊かな環境で育ったことが、その後の人生に影響を与えたと言われている[3]。7歳になって、学校に行くためにサン・レオンの父の家に戻り、フランス語の読み書きを身に付けた。

1833年、ファーブルが10歳の時に一家はサン・レオンを離れ、アヴェロン県の県庁所在地ロデズに出てカフェを開業した。依然一家は貧しかったが、両親が教育には理解があったこと、王立中学校の礼拝堂で司祭ミサを手助けして聖歌隊の役を務めることを条件に学費が免除されたこともあって中学校に進学、ラテン語ギリシア語で優秀な成績を修めた。しかし接客の下手な両親のカフェ経営は失敗し、1年足らずで店を畳んでロデズを離れることとなった。父はその後オーヴェルニュトゥールーズモンペリエと各地を転々としながらカフェを開いては失敗を重ねていった。ファーブルは父の開店先の一つであったトゥルーズのエスキーユ神学校で再び授業料免除の入学を認められて、中学2年に相当する第5学級を終えたが、15歳で一家は離散状態となり[4]、肉体労働で糊口を凌ぎながら独学で学問を続けることとなる。
アヴィニョン ? カルパントラ ? コルシカ

1840年にファーブルはアヴィニョンに滞在していた時に、そこの師範学校で学生を募集していることを知り、入学試験を受け首位で合格する。3年後には師範学校を首席で卒業、1842年の春、小学校上級教員免状を取得した。その後、もう一段上の仕事へ付くために、独学で数学と物理、化学をも習得した。しかし、こんな間にも昆虫のことは頭から離れなかった。[5]

カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になり、1844年、21歳で同じ学院の教師である2歳年上のマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚する。両親はこの結婚に酷く反対した。この時期に最初の娘と息子を儲けるも、幼いうちに亡くしている。その後コルシカ島の大学に進み数学を研究しながらも、昆虫学に傾倒していく。
アヴィニョン: 公教育と教育外教育 独立のきざし

いまや確実な知識を携えたファーブルは、自分の進むべき分野を決めた。科学においては昆虫の行動学、つまり虫の習性の研究に情熱を傾けたが、また優れた教育者としての研鑚も同じ程に続けられていった。アヴィニョンのリセで、物理化学の教師として18年間(1853-1871)教師を勤めたファーブルは、こうして多くの学識経験を積み重ねていった。

ファーブルはアヴィニョンに任命されたことを喜んだ。それは郊外のロベルティの農家に両親や弟が住んでいたからでもあった。両親はやっとそこで落ち着いた生活を20年間送った。しかし何にもまして大きな喜びは、アヴィニョンという地中海的な動植物の豊かな生息地に立ったことである。振り返って見ると、ファーブルの経てきた道のりは常に雄大なヴァントゥ山が見える光り溢れた場所への回帰のためであったことが分かる。

アヴィニョン滞在の2年目に、ファーブルはモキャン・タンドンの忠告に応えて、きっぱりと数学教授資格の受験を放棄して、自然科学の道を選ぶと自然理学士号試験に臨んだ。1854年8月1日、彼は弟に手紙を書き送っている。《トゥールーズから今戻ってきたところだ。今度の試験は今までのうちで最高の出来であった。学士として承認され、審査委員から身に余る賛辞を受け、試験費用は免除された。試験内容は予想外に高度であった…》。

この成功は将来の目的を推進するのに大いに役立ち、次の重要な段階である博士号への道を開いた。教師は通常大学教授資格か博士号の受験を選択することができる。もしファーブルが大学教授資格試験を選ぶならば膨大な知識をもたらすが、しかし個人的な研究のほうは断念せざるを得なくなる。ファーブルにとって知識を深めるとは、同時に自分のテーマで研究することである。博士号を選んだ彼の論文の主題は《多足類における生殖器官と発達の解剖学的研究》であった。パリで行なわれた博士論文の口頭審査員は、国立自然史博物館の教授ヘンリ・ミルヌ・エドワーズ、イジドール・ジョフロワ・サンティレールと植物学者のパイエーといった錚錚たるメンバーであった。慣例により、論文には第二のテーマが必要であり、ファーブルが選んだ植物学の研究は「Himantoglossum hircinum における塊茎の研究」であった。植物学においても動物学同様、ファーブルは大学独特の表現法に従った。それは厳しい規則に則った正確な書き方が要請され、文学風の文体は認められなかった。こういった紋切り型の書体を体験したファーブルは生徒にも将来のためにそれを伝授した。これらの論文が認められ、ファーブルは博物学の博士号を取得した。

これは1855年のことであり、この年はファーブルにとって研究の面では幸運な年であった。科学アカデミー主催のモンティオン生理学賞のコンクールで彼は《良》の成績を得た。それは《ジガバチ科の本能と変態の研究》で、その年の「自然科学と動物学年報」に掲載された。このテーマは後の「昆虫記」へと大きく展開していく。

1856年9月1日に書かれた未発表の観察日誌は、昆虫記の文学調とは異なり《第一試験管、アナバチの小室から取り上げたコオロギ。第二試験管、アナバチから取り上げたコオロギ。第三試験管、自分の目の前でアナバチが刺したコオロギ。》といった文体で、麻痺による肢、触角、大顎の拍動について長くて詳しい記述が続いている。また時にはもっとも観察に困難な場所での微妙な実験をすることもある。例えば、7月23日の書き込みには、数種の膜肢目の捕食昆虫を観察するために、すぐそばの台地で守備隊が的に向けて射撃の訓練をしているイサールの森に行った。《たくさんのツチバチの雄は緩慢に地面近くを飛んでいる。少数の雌はかなり強い風にあおられて、ときどき地面に叩きつけられては頭をしばらく下げたまま動けないでいる。それを見た雄は急いで雌の上に飛び降りるが、むげにも追い払われる。この出来事は射撃の採点者の防御用の小山の少し前で始まった。冬にこの辺りを掘ってみれば必ずツチバチの繭が見つかるはずである》(観察日誌の抜粋から)[6]

コルシカから戻ったファーブルは、情熱の対象である虫の観察を再開し、気候が良くなると、アヴィニョンの郊外の田園やガリッグ、河岸の砂地などを徘徊し続けた。そしてしばしば妻のマリ?セザリーヌを伴って戻るカルパントラの近くでは、彼は何年か前に膜肢目の特にツチスガリの習性を発見した時の感動がよみがえってきた。正にこの時期にファーブルの昆虫学の研究に大きな影響と向上をもたらすことになる出会いがあった。以前からファーブルは、ランド地方の医者で、広い視野の昆虫学者レオン・デュフールに、いくつかの出版物を通して関心を寄せていた。

正確には1855年、デュフールは国立動物学会年報に、「ファーブル氏のツチスガリについて一言」と題した記事を書いた。こうして二人の昆虫学者は1856年からレオン・デュフールが亡くなる1865年まで、文通が続けられた。デュフールは、膜肢目の昆虫が獲物であるタマムシを、不動でしかも生きたまま保持する秘密は《保存液》によるものだと推測していた。これに対してファーブルは極めて緻密な観察に基づき、神経中枢が破壊され麻痺している犠牲者を持ってきて立証してみせた。この実験に基づいてファーブルが発表した論文はフランス学士院でも高く評価され、デュフールもファーブルの論文に感心して、ファーブルを激励する手紙を自ら書き送ったのである。以来、二人の自然科学者はお互いに深く尊敬し合う間柄となった。こうしたファーブルの動物行動学上の発見は、アヴィニョン、オランジュ、そしてセリニャンのアルマスで数十年間も続けられた。私達は未発表の多くの記述を読んで確認しているが、ファーブルに悪意を持っている人々が主張しているのとは逆に、彼は研究の対象である虫の種名については非常に正確さに気を使っていた。大都市から程遠いアヴィニョンであるが、アルマスはもっと孤立しており、ファーブルは定期的に科学者の社会と接触を保っていた。これはファーブルが熱心に書き綴ったきわめて豊富な交信が立証している。

日誌を手にした自然科学者が、いろいろの探査に歩き回った1856年から1857年にかけてが、彼の研究の外観を形作った時期であろう。この日誌を読むと作家を駆り立てた発見への熱情がひしひしと伝わってくる。日誌には、ファーブルが1856年8月と9月にレオン・デュフールに送ったいろいろな昆虫見本のリストと、スワマーダム氏とカトルファジュ氏の記事の写しを送ったことが書かれている。しかし植物学が忘れられていたわけではない。例えば、1856年7月22日には、オプンティア属(サボテン科)の雄しべの動きのオリジナルな観察が書いてある。また、オフリス属(ラン)についてはいくつかの採集リストが記録されている。ウリ科植物の巻きひげとその動きや花式図を描いている。同じく1857年の日付のある覚え書きには、数種の膜肢目のハナダカバチ,ツチバチ、ドロバチ、ルリジガバチに寄生するヒメバチ、アナバチの蛹がどのように被嚢を脱ぐか、甲虫目のハキリバチヤドリがどのように他の巣房を横取りするか、ハキリバチヤドリの蛹の生体の構造などの多くの記録が見られる。両親が住んでいるロベルティの農家に行く途中、彼は小さな左官のルリジガバチの古い巣を記述し図にも描いた。数頁あとには巣の材料、ある虫が住んでいた壁の特徴、化学反応などの記述が後の昆虫記の神髄をなす。

当時ファーブルの注意を引いた事柄で彼が興味を示さなかったものはなかった。きのこに於ても、彼は単に食べるだけではなく既に菌学者であったが、特にヴォークリューズの経済にとって重要で高価なトリュフの栽培に関心があり、1857年4月6日にはこのテーマでヴォークリューズ県立農業園芸協会で講演をしている。この研究発表は「トリュフ栽培法の解説」として出版された。

同じ時期、ファーブルは自然科学だけではなく物理学、化学、宇宙形状学、文学など多くの分野に手を染めていた。中でも数学は自分の研究に大いに役立った。ファーブルの日誌には、生徒の父親のサン・ロランが息子宛に書いた手紙の要約が記されてある《君はファーブル先生の「平行線を再生する曲線」という研究に触れているが、君の優れた先生に私からの賛辞を伝えると共に、彼の研究に役立つかもしれない次の記事を渡して欲しい》。それに引き続いて、全く同じものを再生する特性を持つ超越曲線の証明が書かれてあった。

ファーブル達がソルグ川沿いのタンチュリエー通りに住んでいたとき、二人の有名な植物学者との出会いがあった。一人はアヴィニョンの出身で、パリの「ヴィルモラン種苗会社」の植物栽培部長テオドール・ドゥラクールであった。ほどなく彼とは真の友情を結ぶことになる。二人は植物を語り、輸入によって日々大幅に増えていく庭園栽培の花の種類について話し合った。同じくファーブル達が喜んで迎えたのは、ベルナール・ヴェルロであった。彼は卓越した植物誌学者で、国立自然史博物館の植物栽培部門の最高責任者であった。ファーブルは忘れ難いヴァントウー登山に、この二人のパリジャンを伴い、途中一行は霧のせいで断崖から落ちるところであった。


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