ジャンボリー作戦
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ジャンボリー作戦(ジャンボリーさくせん、英語: Operation Jamboree)は、太平洋戦争末期の1945年2月にアメリカ海軍空母機動部隊関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を標的として行った航空攻撃作戦である。硫黄島の戦いの援護及び日本軍航空戦力の減殺を目的として実行され、日本軍航空隊と工場設備に相当の被害を与えた。ドーリットル空襲や島嶼部の事例を除けば、初めての空母による日本本土空襲であった。
背景

1944年(昭和19年)8月にマリアナ諸島を占領したアメリカ軍は同年11月以降、マリアナ諸島に配備したB-29爆撃機により東京などに対する本格的な日本本土空襲を開始した。B-29による初期の空襲は工場などを目標とした高高度精密爆撃を中心としたが、命中率が低く工場の被害はさほど大きくなかった。アメリカ軍はB-29による空襲に先立って、空母機動部隊の小型機による空襲で日本側の航空戦力を撃破する計画であったが、空母機動部隊がフィリピンの戦いにかかりきりとなったために実現しなかった[1]

1945年(昭和20年)2月、フィリピンの戦いが一段落したアメリカ軍は、硫黄島攻略に着手した。そして上陸戦開始に先立ち、攻略部隊を守るための陽動と航空戦力の減殺を目的として、高速空母機動部隊である第58任務部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将)により関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃することになった[2]。このときの第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹として、戦艦8隻をはじめとした多数の護衛艦艇を伴う強力な艦隊であった(詳細後述)。部隊は空母2-4隻を基幹とする5個任務群に分かれており、うち第58.5任務群は夜間戦闘機を積んでいた[3]。搭載航空隊は日本軍迎撃機との空中戦を想定して、各大型正規空母の搭載機約100機のうち73機以上をF6F戦闘機F4U戦闘機に割いた戦闘機中心の編制としている[3]。航空隊の約半数は本作戦が初めての実戦任務であったことが、アメリカ側の懸念材料であった[3]。このほか、第58任務部隊を支援するため、第50.8任務群の多数の補給艦も出動した[4]。1942年4月に陸上用爆撃機を空母から発進させて行ったドーリットル空襲以来2年10ヶ月ぶりの空母による日本本土空襲であり[3]、通常の艦上機による初の本土空襲であった[5][注 1]

一方、日本軍も硫黄島へのアメリカ軍来攻が近いと予想していたが、陸海軍とも航空隊がフィリピンの戦いで消耗した状態であり、教育部隊を実戦部隊化するなどして戦力の回復を進めている途上であった。陸軍航空隊は第10飛行師団(師団長心得:吉田喜八郎少将)、海軍航空隊は第三航空艦隊(三航艦、司令長官:寺岡謹平中将)を関東地区に展開して、高射第1師団などの対空砲部隊とともにB-29爆撃機に対する迎撃に当たらせていた。日本本土と小笠原諸島の間には特設監視艇が哨戒線を張って、主にB-29爆撃機に対する警戒に当っていた。また、連合艦隊司令部では、アメリカ海軍機動部隊が本土方面に来襲する可能性が高いと警戒しており、捷三号作戦計画に基づき三航艦を中心とした迎撃戦闘を準備していた[7]。なお、このころには日本側は深刻な航空燃料不足に悩まされており、飛行訓練も実施困難で戦力再建の足かせとなっていた[8]

2月上旬に日本軍は陸海合同で硫黄島攻防戦の図上演習を行った結果、硫黄島の防衛は困難で、航空隊がかなり大きな損害を受けてしまうとの予想に達した。そのため、防衛総司令部は硫黄島にアメリカ軍が襲来しても本格的な航空反撃は実施せず、戦力を温存する方針で指導したが[9]、現場の第10飛行師団は積極的な迎撃を考えていた。また、三航艦も新たに編入された第六〇一海軍航空隊(六〇一空)を硫黄島攻防戦に投入することにし、六〇一空に他隊からかき集めた彗星艦爆零戦と搭乗員を増強、2月14日に香取飛行場への転進を下令した[10]


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