ジャワハルラール・ネルー
[Wikipedia|▼Menu]
アニー・ベサントの側近として全インド自治同盟で力をつけ[2][3]、1928年にネルーは「ネルー報告」を発表し、インドの即時独立を求めた。ただしこの報告には、1916年に国民会議派が約束したムスリムの分離選挙を反故にし、さらにムスリムの議席数の確保を否定する内容が含まれていたので、全インド・ムスリム連盟を中心とするムスリムとの対立を招くことになる。

また、1923年に党内対立から国民会議の一派閥としてチッタランジャン・ダース(英語版)と共にスワラージ党を結党していたが、ガンディーに懐柔されて1929年に父モティラル・ネルーから国民会議の議長の座を引き継いだ。ネルーを議長とした同年の国民会議ラホール大会では「プールナ・スワラージ(完全独立)」が採択される。コミンテルン系である帝国主義反対連盟のメンバーでもあった。

その後もネルーは1936年、1937年、1946年にも国民会議の議長に選出されているが、その間何度も投獄を経験した。獄中生活は通算で10年に及ぶ。獄中でネルーは『父が子に語る世界歴史』(1934年)や『自伝』(1936年)、『インドの発見』(1946年)といった著書を完成させている。1942年8月には、第二次世界大戦へのインドの協力の折衝が不調に終わったことを受け「クイット・インディア」(インドから出ていけ)運動が起きたが、その直前にネルーはガンディーや他の国民会議派指導者とともに逮捕され投獄された[4]
暫定政府と分離独立

第二次世界大戦後、1945年から1946年にかけてインドでは選挙が実施されることとなった。この時、日本軍との戦争協力のため反逆罪として逮捕されたインド国民軍兵士への裁判が行われたが、ネルーはこの裁判で弁護士として彼らの無罪を訴え、国民会議派もそれを争点の一つとした[5]。この選挙において国民会議派は大勝したものの、当時は各宗派別の選挙(分離選挙制)が敷かれており、ムスリム選挙区においてはムハンマド・アリー・ジンナー率いる全インド・ムスリム連盟が議席を独占して[6]、事実上宗派別の二大政党となった。新議会でネルーは、フランス領インドシナオランダ領インドネシアといった、第二次世界大戦で日本軍が占領していた地域に投入されていたインド植民地軍の撤退を要求し、1946年中にそれは実行されたが、こうした動きはイギリスの植民地政策の前提を掘り崩すものであり、インド独立はこの時点で避けられないものとなった[7]

イギリスは独立国家像としてヒンドゥーとイスラムの2つの連邦を傘下に収めるインド連邦を提案したもののネルーは拒否し、ここから両派の対立は激化していった[8]。1946年9月には暫定政府が成立してネルーは首班となったが、両派の対立は好転せず、1947年6月には総督ルイス・マウントバッテンが8月15日のインド・パキスタン分離独立を発表し、結局その発表通りにインドとパキスタン8月15日に分離独立し、ネルーは独立インドの初代首相に就任した。
ネルー政権

第1次ネルー内閣は首相・外相であるネルーのほか、副首相・内相には藩王国併合に功のあったヒンドゥー主義寄りのヴァッラブバーイー・パテール(サルダール・パテール)、法相には不可触民出身の反カースト運動指導者であるビームラーオ・アンベードカルを任命するなど、左右両派から広く人材を集めた構成となっていた。また、閣内多数派は議会内で圧倒的多数を占める国民会議派であったが、指定カースト連盟のアンベードカルやヒンドゥー・マハーサバーのシャヤマ・プラサド・ムカジーなどの野党政治家も入閣していた[9]

ネルー政権がまずやらなければならなかったことは、独立時の混乱とそれによって発生した大量の難民への対応だった。その混乱の中でインドの精神的指導者であったマハトマ・ガンディーが独立後まもなく、1948年1月30日に暗殺されると、国民会議派はネルーと副首相であるパテールの二人の指導者による二頭体制となった。社会主義的で政教分離を旨とするネルーと、ヒンドゥー教寄りでパキスタンやマイノリティに強硬な態度を取り資本主義寄りであるパテールはしばしば対立したが、1950年にパテールが死去すると会議派内にネルーに対抗できる政治家はいなくなり、ネルーは党内の指導権を確立した[10]
内政

ネルー政権下の内政でまず手を付けられたのは、インド憲法の制定である。憲法起草委員会の議長には法相のアンベードカルが就任した。インド憲法は1949年11月26日に憲法制定議会で成立し、1950年1月26日に施行された[8]。この憲法では分離選挙の廃止と普通選挙制の導入、基本的人権の尊重、議院内閣制などが定められた。この時最も激しい議論の対象となったのは、各宗教・社会集団に対する留保措置の導入である。これまで導入されていた少数派集団(とくにムスリム)への分離選挙制の廃止は既定路線だったため、それに代わる措置をどこまで認めるかが焦点となった。留保措置に一貫して反対するパテールに対し、ネルーは途中までこの問題に対する態度を明らかにしなかったが、1948年4月に留保措置の対象を後進諸集団に限るべきという意見を表明し[9]、最終的にムスリムやシク教徒への留保措置は認められなかった。そのかわり、アンベードカルに代表される指定カースト(旧不可触民)や奥地の後進諸民族に対する留保措置は認められることとなり、憲法に規定がなされた[9]

ネルー政権の内政の柱となったのは社会主義と政教分離主義である。独立時に分離したパキスタンがイスラム教を柱とした国家を標榜した以上、インドとしては対抗上、国民の多数を占めるヒンドゥー教徒だけでなく、ムスリムやシク教徒、その他諸宗教の信徒も含めたすべての人々を国民と認め、宗教と国家を明確に分離した態度を示す必要があった。分離独立時に大量の難民が発生したこともあり、これは宗教間の寛容や融和を示すものとして基本的には歓迎された。また政教分離を掲げることにより、藩王はヒンドゥー教徒だが住民の多くがイスラム教徒であるカシミール地方の領有権を主張することも可能になり、また少数派諸宗教のこれ以上の分離独立を拒否する根拠ともなった[11]

内政的には、普通選挙制を導入して民主主義体制を堅持し、インドを世界最大の民主主義国家とした。一方で、ネルー率いるインド国民会議派は国内唯一の全国政党であり、政治的にも左派から右派までの包括政党として広い支持基盤を持ち、さらに各地の地方ボスの多くを抑えていたうえ、高い理想に基づく政治や彼の立ち居振る舞い、廉潔さ、さらにはマハトマ・ガンディーに後継者に指名されたことなどはネルーにガンディーに勝るとも劣らないカリスマ性を与え[12]、国民会議派は選挙に勝利し続けた。ネルー政権下のインドは一党優位政党制国家となり、ネルーが死去するまで政権交代は一度もおこらなかった。

英領インド時代にはインド高等文官(Indian Civil Service)と呼ばれる高級官僚が植民地統治に従事していたが、従来この試験に合格するものは圧倒的に本国イギリス人によって占められており、国民会議派は高等文官のインド人化を要求していた[13]。しかし1922年に試験を英印両国で行うようになって以来インド人の割合は急増し、独立時にはインド人の方が割合が高くなっていた[14]。ネルーは独立後、イギリス人高等文官には全員退職を求めたものの、インド人高等文官は諸特権とともに引き続き勤務を認め[15]、また制度もインド高等行政官(Indian Administrative Service)と改称したうえで存続させた[16]
領土の統合と再編

ネルー政権は、国内の政治的統合にも力を入れた。政権発足時にまず問題となったのが、各地に残存する藩王国である。副首相であるヴァッラブバーイー・パテールの交渉によって領域内のほとんどの藩王国はインド併合を選んだものの、北端のジャンムー・カシュミール藩王国グジャラートジュナーガド藩王国、デカン地方のニザーム藩王国(ハイダラーバード藩王国)の3つの藩王国は併合を拒んでいた。このうち、まずジュナーガドは独立後すぐにインド軍が侵攻して併合された。ジャンムー・カシュミールの帰属はパキスタンとの激しい争奪戦となり、1947年に第一次印パ戦争が勃発した。1949年に停戦を迎えるものの、カシュミールはインドの支配するジャンムー・カシュミール州とパキスタンの支配するギルギット・バルティスターン州及びアーザード・カシミールに分割され、さらにその後もその帰属をめぐってカシミール紛争が継続することとなった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:75 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef