ジャック・ホワイト
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2011年、ザ・ホワイト・ストライプス解散。現在は2009年に新たにザ・デッド・ウェザーを結成し、活躍の場を更に広げている。2012年、デビュー15年で初の完全ソロ・アルバム『Blunderbuss』をリリースした。

映画にも出演しており、2003年にアカデミー賞を受賞した『コールドマウンテン』で、アンソニー・ミンゲラ監督は音楽監督T・ボーン・バーネットのアドバイスに従い、ホワイトをジョージア役に抜擢。作品の中ではアパラチアの歌を数曲演奏している。同年、ザ・ホワイト・ストライプスのメンバー2人が、ジム・ジャーミッシュ監督の『コーヒー&シガレッツ』に出演。ホワイトとメグは、「Jack Shows Meg His Testla Coil」と名付けられたエピソードで本人の役で出演した。その後、シンプソンズのエピソード「Jazzy And The Pussycats」(06/未)にアニメの姿でカメオ出演して「Hardest Button To Button」のMVを再現、ジャド・アパトー製作のコメディ『ウォーク・ハード ロックへの階段』(07/未)にエルビス・プレスリー役で特別出演した。2008年には、マーティン・スコセッシ監督のドキュメンタリー映画『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』で、ストーンズとビーコン・シアターで「Loving Cup」をセッションした。

ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター』で共演したレッド・ツェッペリンジミー・ペイジは、『NME』誌のインタビューにおいてホワイトに対し「最近のギタリストの中ではNo.1の存在」といった賛辞を送っている。
生い立ち

1975年7月9日、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイトで10人きょうだいの七男として生まれ[7]、ジョン・アンソニー・ギリスと名付けられた[8]。父方はスコットランド系カナダ人[9][10]、母方はポーランド[11]の流れを汲んでいる。カトリックとして育ち[12]、デトロイト教区で父はビルのメンテナンス管理者、母は枢機卿事務所の事務員として働いていた[3] 。ホワイトは堂役となり、1987年、デトロイト南西部の教区で主に撮影された映画『The Rosary Murders』にクレジット無しで出演した[3]

幼い頃、兄たちから音楽の影響を受け、彼らが放置していた楽器の演奏方法を学習した[13][14]。6歳の頃、屋根裏にあったドラムセットを見つけ、ドラムの練習を始めた[14][15]。幼い頃はクラシック音楽が好きだった[16]が、小学校に入るとドアーズピンク・フロイドレッド・ツェッペリンなどを聴くようになった[13]

短髪で歯列矯正をしていた10代の頃[16]、ホワイトはのちにザ・ホワイト・ストライプスのベースとなる、サン・ハウスやブラインド・ウィリー・マクテルなどのブルース[2][17]1960年代のロックを聴いていた[3]。のちのインタビューでサン・ハウスの「Grinnin' In Your Face」が全音楽の中で一番好きだと語った[18][19]。2005年の『60 Minutes』のマイク・ウォレスによるインタビューでは、違った人生もあったかもしれないと語っている。ウィスコンシン州の神学校に入学して神父になるつもりだった。しかし最後の最後で「普通の公立学校に行く」と考えが変わった。その時新しいアンプを手に入れたばかりで、神学校にはそれを持っていけないと思ったと語った[20]。結局著名な高等学校のビジネス科に入学し、スクールバンドでドラムとトロンボーンを演奏した[18][21][22]

15歳の時、家族の友人ブライアン・モルドゥーンのもとで、家具職人の3年間の見習いをすることになった[3]。モルドゥーンは勤務中、ホワイトにパンク音楽を聴かせた[3][18]。モルドゥーンはホワイトをバンドに加入させ、モルドゥーンがドラムを演奏するためホワイトはギターを演奏することになった[3][23]。彼らはThe Upholsterers としてアルバム『Makers of High Grade Suites』をレコーディングした。

高等学校3年生の時、ミシガン州メンフィスにあるレストランで従業員のミーガン・ホワイト(メグ)と出会い[24]、喫茶店、地元のライヴ・ハウス、レコード店などに一緒に行くようになり[25]、1996年9月21日、2人は結婚し[26][27]、伝統に逆らい妻の姓を名乗ることにした[3][28][29]

家具職人の見習い期間が終了し、自身でサード・マン・アポーストリーを立ち上げた[30]。企業スローガンは「あなたの家具は死んでいない」で、企業カラーは黄色と黒で、黄色のバン、黄色と黒の制服、黄色のクリップボードなどが使用された[30]。サード・マン・アポーストリーはビジネスとしては悪くなかったが、ホワイトに金銭欲がなく、請求書をクレヨンで書いたり、家具の内側に詩を書いたりするなどプロ意識に欠けていたため、あまり利益をもたらさなかった[30]
経歴
ザ・ホワイト・ストライプス詳細は「ザ・ホワイト・ストライプス」を参照2007年、O2ワイヤレス・フェスティバル

婚姻後の姓を名乗り、ジャック・ホワイトは昼は家具屋、夜は地元のバンドの他、ソロでも活動していた[18]。19歳の頃、デトロイトのバンドGoober & the Peas でプロとして初めてドラムを演奏し、1996年の解散まで続けた[2][18][31]


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