家具職人の見習い期間が終了し、自身でサード・マン・アポーストリーを立ち上げた[30]。企業スローガンは「あなたの家具は死んでいない」で、企業カラーは黄色と黒で、黄色のバン、黄色と黒の制服、黄色のクリップボードなどが使用された[30]。サード・マン・アポーストリーはビジネスとしては悪くなかったが、ホワイトに金銭欲がなく、請求書をクレヨンで書いたり、家具の内側に詩を書いたりするなどプロ意識に欠けていたため、あまり利益をもたらさなかった[30]。
経歴
ザ・ホワイト・ストライプス詳細は「ザ・ホワイト・ストライプス」を参照2007年、O2ワイヤレス・フェスティバル
婚姻後の姓を名乗り、ジャック・ホワイトは昼は家具屋、夜は地元のバンドの他、ソロでも活動していた[18]。19歳の頃、デトロイトのバンドGoober & the Peas でプロとして初めてドラムを演奏し、1996年の解散まで続けた[2][18][31]。このバンドでツアーの方法や舞台上での演奏の仕方を学んだ[18]。職業はバーテンダーであったが[32]、1997年からメグはドラムの演奏を学び始め、ホワイトによると「彼女が私と共にドラム演奏を始めた時、新鮮で解放された気分でただ楽しかった」[3]。2人はバンドを組み、「ザ・ホワイト・ストライプス」と名乗り[33]、2か月後初めて公の場で演奏した[18]。
ホワイトとメグは結婚していたにもかかわらず姉弟だと語り[34][35]、テーマカラーとして赤、白、黒の服を常に着ていた[36][37]。彼らはミシガン州のアンダーグラウンド・ガレージロック・シーンでのキャリアを積み始めた[32][36]。彼らはバンタム・ルースター、ダートボムズ、トゥ・スター・タバナクル、ロケット455、ヘンチメンなど地元に根差したバンドと共演していた[18][32]。1998年、ホワイト・ストライプスはデイヴ・ビューイックによるデトロイトを基盤に活動するガレージ・パンクの小さなインディペンデント・レコード会社イタリー・レコードと契約した[38]。1999年、『ザ・ホワイト・ストライプス』を発表し、1年後、カルト・クラシックの『デ・ステイル』を発表した[39]。このアルバムは『ビルボード』誌のインディペンデント・アルバム・チャートで最高第38位となった。
2001年、『ホワイト・ブラッド・セルズ』を発表した。このアルバムのシンプルなガレージロックはアメリカ国内外で称賛され[2]、2002年に最も称賛されたバンドの1つとなり[32]、ガレージ・バンド・リバイバルの一翼を担った[2][33][40]。バンドのイギリスでの支援者で影響力のあるDJのジョン・ピールはジミ・ヘンドリックス以来の逸材と評した[41]。『ニューヨーク・タイムズ』紙はホワイトについて「芸術家気取りの仮面の下にカート・コバーン以来の内向的でダークなロッカーの一面が隠されている」と記した[42]。