ジャック・ニコルソン
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1997年『恋愛小説家』
その他の賞
ケネディ・センター名誉賞
2001年

備考
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
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ジャック・ニコルソン(Jack Nicholson、1937年4月22日 - )は、アメリカ合衆国俳優プロデューサー映画監督。ジャック・ニコルスンと表記される事もある。

デビューから今日に至るまで計12回のアカデミー賞ノミネート経験(主演8回、助演4回)と3回の受賞歴(主演2回、助演1回)を持つ。アカデミー賞に12回のノミネートは男優としては最多で、また1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代と各世代毎にノミネート経験を持つ俳優三人のうちの一人(残りの二人はマイケル・ケインポール・ニューマン)でもある。ゴールデングローブ賞も計7回受賞し、1999年に功労賞を授与され、俳優として多くの俳優に多大なる影響を与えた。
来歴
生い立ち

1937年4月22日アメリカ合衆国ニュージャージー州ネプチューン・シティ(en)に[1]イタリア系の興行師ドナルド・フルシオ(芸名ドナルド・ローズ)[2]アイルランド系のショーガール、フランシス・ニコルソン(芸名ジューン・ニルソン)の子として生まれた[3][4]。父ドナルドが既に家庭を持っていた為、母フランシスは私生児としてニコルソンを生んだ。後に父ドナルドが親権を主張したり、他にも父親を名乗る人物が現れたりと複雑な家庭事情の中で生まれた[5]。またフランシスはまだ16歳の未成年であり、現役のショーガールでもあった事から祖父母によって引き取られた[6]。母方の祖父母は育児を担当しなかった娘を「歳の離れた姉」と教え、孫ではなく晩年の子として育てる事を選んだ。彼が自らの年老いた両親が祖父母で姉と教えられていた人間が母親だと知ったのは役者として成功してからの事だった。1974年タイム誌がニコルソンの特集を組んだ際の取材で偶然に判明し、ニコルソン本人も記者から教えられて初めて事実を知ったが[7]、その時既に祖父母と母は亡くなっていた[1]

祖父のジョセフ・ニコルソンは装飾家で、主にニュージャージー州マナスクアン(en)でショーウインドーのデザインなどを仕事にしていた。祖母メイ・ニコルソンは美容師でアマチュア芸術家であった。母方のニコルソン家にはイングランド系、オランダ系、ペンシルバニア・ドイツ系の血筋もあり[8]、彼をそれらのエスニック・グループに含める考えもあるが、本人はアイルランド系アメリカ人(アイリッシュ・アメリカン)としての家系を誇りに思う様に育てられたと語っている[9][10]。宗教的にはニュージャージー州で主流であったローマ・カトリックに属している[3][8]

青年期に生まれ故郷を離れてニュージャージー州スプリング・レイク(en)のアパートに移住し[11][12]、マナスクアン市の高校(Manasquan High School)に入学した。卒業後は役者への道を選び、映画産業の中心地ハリウッドがあるカルフォルニア州ロサンゼルスへと引っ越した[1]。現在、出身校では映画俳優として名を成したニコルソンの名を冠した演劇コンクールを行っており、ニコルソンが記念行事に顔を見せる事もある[5]
若手俳優時代ミシェル・フィリップスと(1971年)

ハリウッドに来てからはアクターズ・スタジオで学ぶ傍ら、生活費を捻出する為にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社のアニメーション部門で働いた。当初はGofer(制作進行などの雑用役)として入社したが、『トムとジェリー』で知られるアニメ監督のウィリアム・ハンナジョセフ・バーベラから芸術的才能を評価され、正式な社員としてアニメ制作に加わる様に推薦されている[13]。しかしニコルソンは役者としての夢を優先して辞退した[13]。1958年、『クライ・ベイビー・キラー』で映画俳優としてデビューし、これが「低予算映画の王」として知られる映画監督ロジャー・コーマンの目に留まって、当時の若手俳優や製作者が多数在籍していたアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ社(AIP)の映画に出演する様になった。ニコルソンはアカデミー賞を受賞した後も、コーマンの低予算映画で若手時代を過ごした日々を懐かしく語っている。

また俳優業だけでなく製作側にも興味を持ち、西部劇映画の撮影スタッフとしても働いていた。脚本家としても活動しており、初めて来日した時も頼まれていた映画の脚本を書きながらの船旅であったという[14]。役者としては下積みの時代を長く過ごしたが[1]、ロジャーの映画で共演していたデニス・ホッパーピーター・フォンダから誘われ、『イージーライダー』(1969年)に出演した事が転機となった[15]。同作ではアルコール中毒の弁護士であるハンソン役を演じ、本来は別の役者が担当する予定であったこの役でアカデミー助演男優賞にノミネートされ[16][17]、一躍その名を知られるところとなった。

翌年公開の『ファイブ・イージー・ピーセス』では主演を務めて今度はアカデミー主演男優賞にノミネートされ、以降も『さらば冬のかもめ』(1973年)でカンヌ国際映画祭男優賞を、『チャイナタウン』(1974年)でゴールデングローブ賞主演男優賞を受賞するなど、アメリカン・ニューシネマを代表する役者に成長した。そして『イージーライダー』から6年後となる1975年に『カッコーの巣の上で』でアカデミー主演男優賞を受賞し、オスカー俳優の仲間入りを果たした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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