ジャック・カービー
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『ブルーボルト(英語版)』第2号から一緒にやり始めて、それから … 25年くらい続けた」[12] サイモンはカービーと異なり中流家庭の出身だったが[13]、二人は馬が合った。コンビとしての活動のうち、出版社との交渉やスタジオ経営では長身で押し出しが効くサイモンが先に立った[14]。コミック制作ではストーリーと作画のどちらも二人で分担した[6][15]

サイモンとカービーはフォックスを退社し、パルプ・マガジンの出版を手掛けていたマーティン・グッドマン(英語版)のタイムリー・コミックス(英語版)(後のマーベル・コミックス)で仕事を始めた。同社では1940年の後半に愛国ヒーローのキャプテン・アメリカを創造した[16]。タイムリーの編集者となっていたサイモンはグッドマンにキャプテン・アメリカを売り込み、利益の25%を受け取れるよう交渉した[17]。1941年の始めに刊行された『キャプテン・アメリカ・コミックス』第1号は[18] 数日で完売し、第2号の発行部数は100万部を超えた。このヒットはサイモンとカービーのコンビを業界における有名作家の地位に押し上げた[19]。カービーの斬新奇抜なアートは同業者から賛嘆をもって迎えられた[20]。『キャプテン・アメリカ』は実在のドイツ総統ヒトラーを悪役として描いていたが、この時点で米国はまだ第二次大戦に参戦しておらず、ともにユダヤ人である作者二人が国内のナチスシンパから脅迫を受けることもあった[21]

二人はタイムリー外でもフォーセット・コミックス(英語版)の『キャプテン・マーベル・アドベンチャーズ』創刊号(1941年)を共作した[22]。既に人気があったキャプテン・マーベルをアンソロジー誌から独立させたタイトルであり、カービーはオリジナルの作者C・C・ベック(英語版)の画風を真似るよう要求された[23]

キャプテン・アメリカを大ヒットさせたサイモンだったが、グッドマンが約束通りの配当を支払っていないと感じ、カービーとともに大手のナショナル(英語版)社(後にDCコミックスに改名)に移籍することを目論んだ[17]。タイムリーでの週給が75ドルと85ドルだったのに対し、ナショナルでは合計で500ドルの契約を交わすことができた[24]。二人は移籍の話がグッドマンの耳に入れば給金が支払われないのではないかと危惧していたが、この計画を知っていた人間は多く、タイムリーの編集アシスタントスタン・リーもその一人だった[25]。グッドマンも最終的にこれを知り、サイモンとカービーに『キャプテン・アメリカ・コミックス』第10号を仕上げてから退社するよう言い渡した[25]。二人はスタン・リーがグッドマンに密告したのだと信じていた[26]。あいつらのスクリプトは一度も使わなかった。DCからスクリプトが届いたら、窓から飛ばしてしまうんだ。[…] 考えて作ったものは好きじゃないんだよ。俺は生み出す。あいつらは考え出す。わかるか?ジャック・カービー, 1990年[27]

移籍後、カービーとサイモンは最初の週を費やして新キャラクターの案出に取り組んだ。一方でナショナル側はコンビをどう用いるべきか模索していた[28]。編集者が用意した原作を二人が拒絶し続けていると[29]、発行人ジャック・リーボウィッツ(英語版)は「やりたいことをやれ」と告げた。


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