14歳でブルックリンのプラット・インスティテュートに入学するが、1週間で退学したという。「私はプラットが求めていた学生ではなかった。求められていたのは、いつまでも何かに取り組み続ける人間だった。私はどんな課題でもずっとやり続けるのはまっぴらだ。どんどん片づけていきたかった」と語っているが[6]、辞めたのは経済的な理由も大きかった[7]。 1936年にリンカーン・ニュースペーパー・シンジケートに入社し、そこでコミックストリップや、Your Health Comes First!!!(ジャック・カーティス名義)のような1コマの読者相談漫画を描いた。1939年の末にアニメ映画制作会社のフライシャー・スタジオに移り、『ポパイ』の動画を描いた。カービーはこう回想する。「リンカーンからフライシャーに移ったが … ああいう所にはどうしても耐えられなくて、さっさと抜け出してしまった。… 父が働いていた工場のようなものだ。あそこは絵を生産する工場だったんだ」[6] 米国のコミックブック界にはブームが訪れていた。このころ、出版社からコミックブック制作を請け負うスタジオ(パッケージャー 多くのコミック出版社で職を探した末に[10]、コミックブックのほか新聞へのシンジケート配信も行っていたフォックス・フィーチャー・シンジケート
コミック界入り (1936?1940)
ジョー・サイモンとのパートナー関係 (1941?1942)