ジャック・カービー
[Wikipedia|▼Menu]
母ローズマリーと父ベンジャミン・カーツバーグはユダヤオーストリア人の移民で、ベンジャミンは衣料品工場で働く労働者だった[1][2]。若きカービーはその環境を抜け出したいと願っていた。絵を描くのが好きだったため、美術を学べる場所を求めていた[3]。絵は自己流に学んだが[4]、影響を受けた相手としてコミックストリップ作家ミルトン・カニフ(英語版)、ハル・フォスター(英語版)、アレックス・レイモンド(英語版)や、風刺漫画家C・H・サイクス(英語版)、ディング・ダーリング(英語版)、そしてローリン・カービー(英語版)を挙げている[4]。少年時代にはボーイズ・ブラザーフッド・リパブリックというクラブに所属し、そこで発行される新聞に漫画を描くことで絵の技術を生かした。このクラブはストリートキッドを教化するため自治を行わせる「ミニチュア市」で、ニューヨーク東3丁目に位置していた[5]

14歳でブルックリンのプラット・インスティテュートに入学するが、1週間で退学したという。「私はプラットが求めていた学生ではなかった。求められていたのは、いつまでも何かに取り組み続ける人間だった。私はどんな課題でもずっとやり続けるのはまっぴらだ。どんどん片づけていきたかった」と語っているが[6]、辞めたのは経済的な理由も大きかった[7]
コミック界入り (1936?1940)

1936年にリンカーン・ニュースペーパー・シンジケートに入社し、そこでコミックストリップや、Your Health Comes First!!!(ジャック・カーティス名義)のような1コマの読者相談漫画を描いた。1939年の末にアニメ映画制作会社のフライシャー・スタジオに移り、『ポパイ』の動画を描いた。カービーはこう回想する。「リンカーンからフライシャーに移ったが … ああいう所にはどうしても耐えられなくて、さっさと抜け出してしまった。… 父が働いていた工場のようなものだ。あそこは絵を生産する工場だったんだ」[6]

米国のコミックブック界にはブームが訪れていた。このころ、出版社からコミックブック制作を請け負うスタジオ(パッケージャー(英語版))が数社あり、その一つであるアイズナー&アイガー(英語版)で原作と作画の仕事を始めた。カービー自身の記憶によると、同社の『ワイルドボーイ・マガジン』で描いたのが最初のコミック作品だった[8]。この時期の作品にはSF冒険コミック The Diary of Dr. Hyward(カート・デイヴィス名義)、西部劇犯罪もの Wilton of the West(フレッド・サンド名義)、剣劇冒険作品 The Count of Monte Cristo(ジャック・カーティス名義)、ユーモア作品 Abdul Jones(テッド・グレイ名義)および Socko the Seadog(テディ名義)などがある。これらはアイズナー&アイガーの受注先であるジャンボ・コミックス(英語版)などから刊行された[9]。「カービー」という名が初めて現れたのは、イースタン・カラー(英語版)社の『フェイマス・ファニーズ(英語版)』第63-64号(1939年10-11月)に掲載された西部劇作品「ローン・ライダー」で用いた筆名「ランス・カービー」だった[9]。カービー本人はこの名がジェームズ・キャグニーを思わせるため気に入っていた。後に公的に「ジャック・カービー」に改名するが、その理由がユダヤ系の血筋を隠すためだとほのめかされると気分を害したという[7]
ジョー・サイモンとのパートナー関係 (1941?1942)

多くのコミック出版社で職を探した末に[10]、コミックブックのほか新聞へのシンジケート配信も行っていたフォックス・フィーチャー・シンジケート(英語版)に移り、当時としては相応の週給15ドル(2019年現在の価値は270ドル[11])を得た。1940年1月から3月にかけて連載されたコミックストリップ『ブルービートル(英語版)』がスーパーヒーロー物語の世界への入り口となった。主人公キャラクターの作者チャールズ・ニコラス(英語版)は同社のハウスネーム(共有の筆名)で、カービーも3か月の連載中この名を用いた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:331 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef