ジャック・カービー
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編集者が用意した原作を二人が拒絶し続けていると[29]、発行人ジャック・リーボウィッツ(英語版)は「やりたいことをやれ」と告げた。そこで二人は『アドベンチャー・コミックス(英語版)』の連載「サンドマン(英語版)」のリニューアルを行い、また新たなヒーローマンハンター(英語版)を作り出した[30][31]。1942年7月には、当時進行中だった世界大戦の少年部隊を主人公とする「ボーイ・コマンドーズ(英語版)」の連載を始めた。この作品は同年末にコンビにとってナショナル初となる単独誌を与えられた[32]。『ボーイ・コマンドーズ』の月間発行数は100万部を超え、ナショナルの売り上げトップ3に食い込んだ[33]。二人はまた、銃後のアメリカで活動するもう一つの「キッド・ギャング」作品、ニュースボーイ・リージョン(英語版)を『スター・スパングルド・コミックス(英語版)』で連載し、こちらもヒットさせた[34]。DC社の重役で原作者でもあるポール・レヴィッツ(英語版)は2010年に「ジェリー・シーゲルとジョー・シュスター(英語版)と同じく、ジョー・サイモンとジャック・カービーの作者コンビは折り紙つきの品質保証マークだった」と所見を述べている[35]
第二次大戦への従軍 (1943?1945)

第二次世界大戦が続く中、サイモンとカービーが徴兵される可能性を考えたリーボウィッツは、不在中に刊行する原稿の蓄えを用意するよう求めた。二人は原作者インカーレタラー、カラーリストを雇って1年分の原稿を作成した[33]。カービーは1943年6月7日に陸軍に徴兵され[36]、ジョージア州サヴァンナキャンプ・スチュワート(英語版)での基礎訓練の後に第11歩兵連隊(英語版)F中隊に配属された[37]D-デイから2か月半を経た1944年8月23日、カービーはノルマンディーオマハビーチに上陸した[37]。ただしカービー自身の回想ではD-デイから10日しか経っていなかった[36]。彼の証言によると、コミックアーティストのカービーが配属されたことを知った上官は彼を斥候の役に付け、市街地で先行偵察を行って地図や図面を描くという危険極まる任務を与えた[38]
戦後の活動 (1946?1955)『ヤング・ロマンス』第1号(1947年10月)。カービーとサイモンによる表紙。

終戦後、サイモンはハーヴェイ・コミックス(英語版)でカービーとともに働く算段を付けた[39]。二人は1950年代の前半を通して同社で多くのタイトルを送り出した。その中には「キッド・ギャング」ものの冒険コミック Boy Explorers Comics 、同じく西部劇コミック(英語版)Boys' Ranch 、スーパーヒーローもの Stuntman 、立体映画のブームに乗った Captain 3-D がある。二人はほかにもフリーランスとしてヒルマン・ピリオディカルズ(英語版)(犯罪もの Real Clue Crime)やクレストウッド・パブリケーションズ(英語版)(Justice Traps the Guilty )へも寄稿していた[9]

コンビにとって戦後期最大の成功を生み出したのはロマンス・コミックスの創生だった。恋愛を題材にした告白体小説の雑誌『トゥルー・ストーリー(英語版)』(マクファデン・パブリケーションズ(英語版))からヒントを得たサイモンは、アイディアをコミックブックに移し替えた新タイトル『ヤング・ロマンス(英語版)』のモックアップをカービーと共同で作成した[40]。サイモンはそれをクレストウッドのジェネラルマネージャーだったモーリス・ローゼンフェルドに見せ、利益の50%のロイヤルティで刊行を持ち掛けた。


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