ジャッキー・チェン
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1980年代に入ると、『プロジェクトA』(1984年)や『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(1985年)に代表される自ら命懸けのスタントをこなす監督・主演作品が大ヒット。香港映画界を代表するアジアのトップスターとなった。一時期、批評家からの声に刺激され『奇蹟/ミラクル』(1989年)のような文芸路線を手がけたこともあったが、アクションを期待してるファンからの要望を受け、再びエンターテイメント路線に復帰した。

そんな華々しい活躍の中で『サンダーアーム/龍兄虎弟』(1986年)の撮影中に大けがを負ってしまい、その後遺症で、右耳がほとんど聞こえなくなっている。

プロジェクト・イーグル』(1991年)を最後に、一時監督業からは退き、俳優業に専念する一方、製作者として『ロアン・リンユィ 阮玲玉』(1992年)などの文芸作品も世に送り出した。
ハリウッド進出

元々、ハリウッド進出の意欲は高く、『バトルクリーク・ブロー』(1980年)では、ホセ・フェラーらと共演したが、興行成績が振るわず、散々な結果に終わった。また、ハリウッドの有名俳優が総出演した『キャノンボール』(1981年)では、彼と同じく香港俳優のマイケル・ホイと共に、日本人ドライバーとして出演。映画自体は、アメリカでヒットしたものの、地元香港では振るわず、ジャッキーの存在がハリウッドに広まることはなかった。

2度目にハリウッドに挑戦したのは、ちょうど香港映画がアメリカでヒットするようになった頃だった。ゴールデン・ハーベストは、『プロテクター』(1985年)でジャッキーにタフガイを演じさせたが、彼のキャラクターがうまく生かされず、評価は高まらなかった[注 4]。しかし、1995年公開の『レッド・ブロンクス』が、全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、再びハリウッドへの道が開かれることとなる。

そして、1998年の『ラッシュアワー』の大ヒットで、ハリウッドスターとしての地位を築き、続編『ラッシュアワー2』(2001年)は、全世界興行成績で大ヒットを記録する。その後、立て続けにアメリカ映画作品に出演。アメリカを中心に世界各国での知名度が上がり、アカデミー賞のプレゼンターとしても登場するなど、東洋人を代表するハリウッドスターとなった。

しかし、地元・香港では、これらのジャッキー主演のハリウッド映画はいずれも不入りで、『タキシード』(2002年)、『シャンハイ・ナイト』(2003年)、『メダリオン』(2003年)などは、ジャッキーがスターになって以来最低レベルの興行成績に甘んじる結果となった[11]
アジアへの回帰と脱スタント・アクション

2004年、香港のエンペラー・エンターテインメント・グループと提携して、自らの映画制作会社、JCEムービーズを設立し、その第1回作品として『香港国際警察/NEW POLICE STORY』を製作・主演。以後、香港・中国映画とアメリカ映画に並行して出演するようになる。2007年には、長年の友人である真田広之との初共演が実現した『ラッシュアワー3』が公開され、公開週で全米ナンバーワンを獲得するヒットとなり、2008年には、ジェット・リーとの初共演作『ドラゴン・キングダム』が公開された。

2009年、アクションを封印したシリアスなバイオレンス映画『新宿インシデント』に主演。主人公の師匠役を演じた2010年の『ベスト・キッド』は、2000年代に入ってからの出演作では最大のヒット作となった。2011年、出演作100本目記念作品とされる歴史映画1911』が公開。2012年公開の『ライジング・ドラゴン』をもって、「体を張った本格アクションからは引退」と宣言した。

2014年4月、上海市普陀区に世界初となるジャッキーの博物館・成龍電影芸術館が開館した。芸術館をはじめ、3棟の建物がメインとなり、映画資料や小道具、衣装などが展示されている。

2015年公開の主演・製作映画『ドラゴン・ブレイド』が大ヒットを記録し、2010年代最大の成功作となった。これにより、アメリカのフォーブス誌の高額俳優ランキング(2014年6月1日 - 2015年6月1日)で、5000万ドルを記録し、ロバート・ダウニーJr.に次ぐ世界2位となった。

2016年には、アカデミー名誉賞を受賞した。また、ファンへの感謝も忘れず、「僕が窓から飛び降りたり、キックしてパンチして、骨折しながら映画を作り続けているのはすべて世界のファンのためだよ。ありがとう!」と述べ、会場でスタンディングオベーションが起きた[1][12]
俳優活動歌手として活躍するチェンチェンの私用ジェット機・レガシー650(北京)
アクション俳優成家班についてはジャッキー・スタントチームの主なメンバーを参照

ジャッキーのアクションシーンは、格闘家や元スポーツ選手スタントマンなどの仲間で構成された『成家班、英語: Jackie Chan Stunt Team(ジャッキー・チェン・スタント・チーム)』によって支えられている。成家班は、ジャッキー作品映画に脇役・悪役で出演し、アクション(殺陣)を作り上げている。

ヘリコプターを使ったアクションとして、『ポリス・ストーリー3』(1992年)と『ファイナル・プロジェクト』(1996年)が有名だが、『ポリス・ストーリー3』では、機体がジャッキーの体にぶつかり大怪我、『ファイナル・プロジェクト』では、プロペラがジャッキーの帽子に接触(頭上2cm)し、間一髪大怪我を免れている。その後、ジャッキーはヘリコプターを使ったアクションは行っていない。

「自身の作品で一番好きなのは?」という問いに対し、「アクションなら『ポリス・ストーリー/香港国際警察』、監督なら『奇蹟/ミラクル』」と答えている。また、「思い出に残る作品は?」には、笑いながら「沢山ありますよ」と前置きした後、悩みながら、第3位は『酔拳2』、第2位は『レッド・ブロンクス』、第1位は『プロジェクトA』と答えている。
スタントマンの使用

自身のスタントマンは、『プロジェクトA』から使用しており、時計台の落下はマース(英語版)[13]も担当している。アクションでは、チン・ガーロウ(英語版)[13]、カースタントではブラッキー・コウ[14]、曾凡仁[15]、李樹華[16]。他にはブルース・ロウ(羅禮賢)[14]、見た目もそっくりなリー・ハイチン[17][18]、馬毅[14]など。アクション、武術カースタントに使用しているのは、2007年に羅禮賢が発言したことをきっかけに、中華圏では広く知られているが、日本では、本人も否定する発言をするのであまり知られていない。しかし、2004年のあるアメリカの映画祭でジェット・リーが、「ジャッキーもスタントマンを使う」と、インタビューに答えている[19]
カメオ出演

自身がプロデュースした作品には、1シーンのみのカメオ出演をする場合が多い(1986年『クラッシュ・エンジェルス/失われたダイヤモンド』、1999年『ジェネックス・コップ』、2004年『エンター・ザ・フェニックス』など)。
引退・新人の育成について

以前は、自分自身が主演であることへのこだわりを見せていたが、近年では、アクションスターとして第一線から退くことを示唆している。また、事あるごとに引退を示唆する発言をしている。2000年代に入ってからは、若いスターの発掘やプロデュースに積極的に進出しており、「次世代を育てることに力を入れていく」ことを明言している。
歌手

俳優だけではなく、歌手としても有名であり、彼の映画の主題歌は、彼自身が歌うことが多い。歌は、ロックレコード李宗盛から学んだという。

陳淑樺との「明明白白我的心」は、中華圏で有名であり、今でもデュエットソングとして人気がある。1996年発表の「夢で会えたら」(再見寧願在夢中、Would Rather Say Goodbye In Dreams)は、彼の代表曲とも言えるポップスである。

日本での本格的歌手デビューは、1983年の五輪真弓「マリアンヌ」で、シングルレコードによる発売。ただし、レコードデビューとしては、1980年に『ヤングマスター 師弟出馬』の日本公開版主題歌として発売された「さすらいのカンフー」が最初である。『ファースト・ミッション』(1985年)日本公開版では、オープニング、エンディングとも日本語のオリジナル曲(「CHINA BLUE」「TOKYO SATURDAY NIGHT」)を本人が歌った。
人物カンヌ映画祭でのジャッキー・チェン(2008年)カンヌ映画祭にて(2012年)カンヌ映画祭にて(2013年)シドニーにて(2016年)

ジャッキー・チェン

各種表記
繁体字:成龍
簡体字:成?
?音:Cheng Long(北京語)
Sing4 Lung4(広東語)
和名表記:せいりゅう
発音転記:チォンロン(北京語)
センロン(広東語)
英語名:Jackie Chan
各種表記(本名)
繁体字:房仕龍
簡体字:房仕?
?音:Fang Shilong(北京語)
Fong4 Si6 Lung4(広東語)
発音転記:ファン・シーロン(北京語)
フォン・シーロン(広東語)
英語名:Fong Si-lung
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トム・クルーズジョニー・デップと並び、ファンへのサービス精神が旺盛なのは有名で、香港の撮影所まで訪ねたファンに対しては、撮影中で忙しいにもかかわらず、サインや2ショット写真など、常に特別待遇で接している。

千葉真一の熱狂的なファンで、千葉のような「アクションスター」になる事が夢だった[20]テレビドラマキイハンター』で、スタントマンに頼らず、千葉が演じるアクションに刺激を受けて惚れこみ、ジャッキーがスターと認められだした頃に、東映京都撮影所へ千葉を表敬訪問している[20]

1994年読字障害であることを告白したが、現在は克服している。広東語北京語英語韓国語[注 5]に堪能で、日本語も少し話せる。

ふるまいよしこによると、日本で人気を博していた時代のジャッキーは、中国ではまったく知られておらず、ジャッキーの映画が中国に入り始めたのは、1997年香港返還後のことで、植民地政府下香港警察に全面的な協力を受けて撮影された作品は、当初は、公的には敬遠されていた感があったという[21]2000年代香港映画が中国市場の開拓を狙って作品作りをするようになると、ジャッキーも積極的に中国に進出し、香港映画が中国市場受けするテーマやアプローチを選択し始めると、ジャッキーも香港のスターというより、中国のスターを目指し始めた[21]

2012年9月21日にCBCの『ジョージ・ストロンボロポロス・トゥナイト』に出演した際に、「父は、元スパイだった。ある日、オフィスに戻るために、運転をしていたら、80歳近くになる父親が急に『話しておきたい秘密がある』というので、カメラと照明を設定し、そしてカメラの前でその告白をしてもらった。私は、40年以上ジャッキー・チェンとして生きてきたが本名は房(ファン)であると、父から伝えられた。父には、他に息子が2人、母には娘が2人いると言われ、自分には兄弟がいることがこの時分かった」と、インタビューに答えている。このインタビューで(この時点では)、2人の兄に会った事はないが、姉達には会ったと答えている[9]

ジャッキーは、日本では「香港の庶民派スター」という何十年来のイメージであるが、中華圏では立派な「愛国派スター」と認識されており、「正義中国人として外国の悪に立ち向かっていく」作品が続き、そこに「愛国ムード」を嗅ぎ取る人もいる[21]
先輩・後輩との関係

ジャッキーが無名時代、休日に1人でボウリングに行こうと道を歩いていると、偶然ブルース・リーと遭遇。


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