鈴木章治とリズムエース、北村英治らも音楽活動を始めた。宮沢昭、守安祥太郎らも活躍した。1956年に穐吉敏子が、1962年に渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学[45]。1963年には松本英彦がモントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。八木正生、猪俣猛らも活躍した。
1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン(1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった[46]。1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行、富樫雅彦、日野皓正、菊地雅章、山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里でジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身の原点だと述べる[47]。
1965年、ニューポートジャズフェスティバルに日本人ジャズシンガーとして初めて出演したのは、3日目のトリをビリーテイラートリオと一緒に出演した弘田三枝子だった。1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。中央線沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂のプロデューサーが続に中央線ジャズという言葉を提唱した[35]。
21世紀に入ってからも、H ZETTRIO、山中千尋、矢野沙織、寺久保エレナ、上原ひろみ、国府弘子、西山瞳、菊地成孔、小曽根真、石若駿らが活躍した。 ジャズ、ロックの評論家で、若者に人気だった植草甚一の約4000枚のジャズ・レコード・コレクションは、タモリが引き取ることになったという[48]。 セクシーな女性歌手の系譜は、ヘレン・メリルらがルーツとも見られているが、21世紀の日本のジャズでも、高木里代子らがそれを引き継ぎ、山下毅雄の音楽が映画のサウンドトラックとして使用される現象も見られた[49][50]。他の音楽ジャンルにおけるジャズ要素を取り入れた楽曲は、ジャジーと表現されることがある。ジャジーという表現は、ロックやポップス、歌謡曲など、異なるジャンルでも使用される[51]。またジャズは聴衆に、大人向け、自由といったイメージを抱かせ、BGM業界にも一定の役割を果たした[52]。 過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。
エピソード
主なスタイル/ジャンル
ニューオーリンズ・ジャズ / ディキシーランド・ジャズ
スウィング・ジャズ
シンフォニック・ジャズ
モダン・ジャズ
ビバップ
クール・ジャズ
ウエストコースト・ジャズ
ハード・バップ
ファンキー・ジャズ
ソウル・ジャズ
モード・ジャズ(新主流派を含む)
フリー・ジャズ(アヴァンギャルド・ジャズ)
ラテン・ジャズ (モダン・ジャズに含まれる場合もある)
アフロ・キューバン・ジャズ
ブラジリアン・ジャズ
ボサノヴァ・ジャズ(スタン・ゲッツなど)
ジャズ・ファンク(ファンキー・ジャズとは異なる)
ジャズ・ロック
エレクトリック・ジャズ(マイルス・デイヴィスなど)
オルガン・ジャズ(ジミー・スミスなど)
クロスオーヴァー(デオダートなど)
フュージョン
ロフト・ジャズ(英語版による)
エスノ・ジャズ(英語版による)
パンク・ジャズ
ジャズ・ラップ
クラブ・ジャズ
スムーズジャズ