ジャズ
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ナット・キング・コールメル・トーメペギー・リー[29]らの歌手も、この時期活躍した。

1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックをジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィス[注釈 4]が『死刑台のエレベーター[注釈 5](監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』の映画音楽を担当した。1958年には、アメリカ映画私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった[30]

1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、それまではある程度調性に従って演奏するスケールを緻密に変化させる必要があったところに、ドリアンなどの聴き馴染みのないモードに長居することで、演奏は楽になる割にファンシーなサウンドを得ることが可能になった。一方、オーネット・コールマンアルバート・アイラーサン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ[31]という言葉が広まっていった[32]。また、ジャズ・ボーカルではビリー・ホリデイサラ・ヴォーンカーメン・マクレエエラ・フィッツジェラルドニーナ・シモンアニタ・オデイらも活躍した[33]。白人歌手のヘレン・メリルクリス・コナーらも人気を集めた。

1960年には、ジョン・コルトレーンによるアルバム『ジャイアント・ステップス』が発売された。コルトレーンは翌1961年にも『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を発表した[34]。また1960年代前半には、ブラジル音楽ボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなった。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)を『ビルボード』誌のポップ・チャート1位に送り込み[35]、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、ハンク・モブレーのカバーによる「リカード・ボサノヴァ」が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラーキャノンボール・アダレイホレス・シルヴァーナット・アダレイラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、1950年代後半から1960年代に人気となった。またリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」は大ヒットしすぎたために、ブルーノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。

1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギターハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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