ジャスミン革命
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その背景もあり、このトラブルがブアジジと同じく就職できない若者中心に職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、ストライキやデモを起こすきっかけになった[18][19]
暴動の拡大

やがて高い失業率に抗議するデモは、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権の23年間の長期体制そのものに対するデモとなり、急速に発展していった[17]

首都のチュニスではデモの動きは少なかったものの、水面下でインターネットによる反体制運動が始まっていた。南部のデモが盛んな地域での出来事を、有志の自宅からフェイスブックにニュースとして投稿した。これが南部の抗議行動に勢いを与えた。政権のメディア統制も効かなくなっていた。アルジャジーラなどに対して「事実を捏造している」などとするキャンペーンを始めたが、反政府団体のサイトをブロックすると海外のハッカーから報復を受け、逆に政府のサイトがダウンする事態に陥った。

24日、マンゼル・ブーザイアーンでデモ鎮圧に初めて実弾が使われ、1人が死亡、5人が重軽傷(うち1人はのちに死亡)を負った。これがチュニスでも本格的なデモを誘発し、27日には1,000人もの市民が街に繰り出した。

28日、ベン=アリー大統領は突如、病院にブアジジを見舞ったが、無菌の治療室にマスクも白衣もつけずに現れた[16]ため、外国人の陰謀であると決めつけた直後のテレビ演説も相まって、反発は強まった。

1月4日、前々から疑われていたブアジジの死が「確認」された。ブアジジの遺族は口外を禁じられた[16]が、5日に行われた葬儀には数千人が参列した[17]

デモ隊と治安部隊の衝突はエスカレートし続けた。7日には中部の都市タラで暴徒が警察署といった政府関連庁舎や銀行に火を放ち、8日夜から9日にかけてタラ、カスリーヌといった都市で高い失業率に抗議するデモが発生、治安部隊が発砲したことにより少なくとも14人[19]、野党側指導者によれば25人が死亡した[20][21]。10日にはカスリーヌで放火や警察署への襲撃が起こり、これに対処した警官隊が発砲したため市民4人が死亡した[22]。一連の弾圧で、犠牲者を診察した医師は、「(銃弾の跡から判断して)明らかに殺す意思があったと確認できる」と証言した。デモ参加者だけではなく、帰宅途中の労働者や、屋上にいた市民までもが殺害された。現場一帯は封鎖され、メディアが取材することはできなかったが、現地市民が携帯電話で撮影した映像がフェイスブックに投稿された。ベン=アリー大統領

10日夜、ベン=アリー大統領は再びテレビ演説を行った。デモの弾圧による流血そのものの存在は認めたものの、「私の責任ではない」と弁解し、カシム内務大臣の更迭を約束した[18]。全国の高校・大学の閉鎖や、今後2年間での30万人に及ぶ大規模な雇用緊急措置を発表したが、一連の暴動はテロリストによるものだと非難する姿勢は変わらなかった[23][24]。各政党からは、大統領に対し警官隊による発砲の中止を求める声があがった[25]

カスリーヌでの弾圧は裏目に出た。11日、デモはチュニスをはじめ全国に広がった。暴徒は車、銀行、警察署といった政府関係庁舎への放火、また商店街において略奪行為を行った。警官隊はこれを解散させるため威嚇射撃、火炎瓶や催涙弾の使用を行った。内務省より死者は延べ23人になったと発表された(実際にはこの時点で50人以上が死亡しているとも言われた)[26]

12日には、デモの規模は10倍に膨れ上がった。首都チュニスとその周辺地域には、20時から翌朝午前6時までの夜間外出禁止令が発令された[27]

13日には、ベン=アリー大統領が軍以上に信頼を置く警察部隊が導入された。警官はデモへの参加の有無にかかわらず市民を屋上から狙い撃ちにし、チュニスで数十名の死者、数百人に負傷者が発生した。戒厳令が発令され、軍に対して市民の殺害命令が出されたが、軍部はその命令を拒否した。軍部と警察部隊で対立が生じ、大規模な戦闘の危機が生じたが、軍部は警察部隊への攻撃態勢を取らなかったため、かろうじて均衡状態が保たれた。

後ろ盾であった軍の離反を招いたベン=アリー大統領は、譲歩せざるを得ないと判断した。モハメッド・ガンヌーシ首相は、治安対策が不十分としてカシム内務大臣の更迭を改めて発表し、また、デモにおいて拘束された参加者らを釈放する方針を表明した[28]。夜の演説ではベン=アリー大統領が自ら2014年の次期大統領選挙で不出馬、退任すると発表した[29][30]。食料品の高騰に対する対策、言論の自由の拡大、インターネット閲覧の制限の解除などの政策の履行を約束した。一連の騒乱については「側近に裏切られた」と釈明し、治安部隊に対し、デモ隊への発砲を禁じたと発表した[31]。しかし夜になっても銃声は鳴りやまず、死者が発生した。秘密警察が大統領支持派を装って、街宣車で政府支持を叫びながら外出禁止令で無人状態の街中を走り回り、反体制派を脅しているという噂が流れた。市民たちは、夜が明けたら再び独裁体制へ逆戻りしてしまうのではないかと恐れた。それが14日のデモへとつながった。
政権崩壊

14日のデモは、今まで近づくことさえためらわれた内務省前にまで及んだ。政治犯が釈放され、デモ隊や支持者とともに喜びを分かち合った。ベン=アリー大統領は非常事態宣言を行い、夜間外出禁止令を全土に広げた。また、ガンヌーシ内閣の総辞職と2014年実施予定の総選挙を大幅に前倒しし、今後半年以内に実施する考えを表明した[32]

しかし、ここにきて政府は内部から崩壊し始めた。メズリ・ハダドユネスコ大使が、治安部隊がデモ隊に発砲したことに対して抗議を行い大統領に辞表を提出した[33]。ベン=アリー大統領はデモ隊への実弾使用をラシド・アンマル陸軍参謀総長に迫ったが、逆に「あなたはおしまいだ」と、不信任を突きつけられた[34][35]。ベン=アリー大統領は、政権維持の手段をすべて失った。


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