ジャスミン革命
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ベン=アリー大統領は、イスラム主義組織および労働者共産党への抑圧、近代改革など、アメリカやかつてのイランと同様の政策を行い、政治犯釈放などの人権政策もあり「民主主義・人権」国際賞を受賞したが、今回の暴動においても、譲歩策を次々と示したことが弱腰とも映りデモ隊を勢いづかせたとの指摘がある[13]。イスラム主義組織を抑圧してきた政権の崩壊により、イランアフマディーネジャード大統領は「チュニジアの人々はイスラムの法とルールの確立を望んでいる」[14]イラン革命同様のイスラム国家化を示唆した。非合法であったイスラム政党の幹部が亡命先から戻るとの推測[15]もある。
事態の推移
革命の発端

2010年の後半から、革命のきっかけの要素は整いつつあった。11月7日のクーデター記念日、国民的ラップシンガーのエル・ジェネラル(本名ハマーダ・ベン・アモール)はネット上に、政権への抗議を込めた曲「Rais Lebled(国の頭)」を発表した。政治体制、支配層による横暴を糾弾する内容である。

ウィキリークスも革命の後押しをすることになった。ウィキリークスはチュニジアに関する合衆国政府高官のコメントを暴露した。その内容は、ベン・アリー政権の腐敗を厳しく批判するものだった。それまで国民は、アメリカが政権の後見人として支えているとみていたが、実際にはアメリカは政権の維持に固執しているわけではないということが明らかになり、人々を勢いづけた。

直接的かつ決定的な要因は12月17日、中部の都市シディ・ブジドで起こった。この日の朝、露天商[16]モハメド・ブアジジ[17](26歳)が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして地方役人が野菜と秤を没収、さらには役所の女性職員から暴行と侮辱を受けた。ブアジジは没収された秤の返還を求めて3回役所に行ったが、引き換えに賄賂を要求された。3回とも追い返されたブアジジは、これに抗議するために同日午前11時30分、県庁舎前で自分と商品を積んだカートにガソリンをかけて火をつけ焼身自殺を図った[16]。その場に駆けつけたブアジジの従兄弟のアリ・ブアジジが、事件直後の現場の様子を携帯電話で撮影し、その日の夕方、フェイスブックへ映像を投稿した。アルジャジーラで事件が取り上げられ、一人の青年の焼身自殺が全国に知れ渡った。イスラム教を含むアブラハムの宗教は自殺することを禁じており、また火葬の習慣もないため「焼身自殺」が与える衝撃は大きかった。その背景もあり、このトラブルがブアジジと同じく就職できない若者中心に職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、ストライキやデモを起こすきっかけになった[18][19]
暴動の拡大

やがて高い失業率に抗議するデモは、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権の23年間の長期体制そのものに対するデモとなり、急速に発展していった[17]

首都のチュニスではデモの動きは少なかったものの、水面下でインターネットによる反体制運動が始まっていた。南部のデモが盛んな地域での出来事を、有志の自宅からフェイスブックにニュースとして投稿した。これが南部の抗議行動に勢いを与えた。政権のメディア統制も効かなくなっていた。アルジャジーラなどに対して「事実を捏造している」などとするキャンペーンを始めたが、反政府団体のサイトをブロックすると海外のハッカーから報復を受け、逆に政府のサイトがダウンする事態に陥った。

24日、マンゼル・ブーザイアーンでデモ鎮圧に初めて実弾が使われ、1人が死亡、5人が重軽傷(うち1人はのちに死亡)を負った。これがチュニスでも本格的なデモを誘発し、27日には1,000人もの市民が街に繰り出した。

28日、ベン=アリー大統領は突如、病院にブアジジを見舞ったが、無菌の治療室にマスクも白衣もつけずに現れた[16]ため、外国人の陰謀であると決めつけた直後のテレビ演説も相まって、反発は強まった。

1月4日、前々から疑われていたブアジジの死が「確認」された。ブアジジの遺族は口外を禁じられた[16]が、5日に行われた葬儀には数千人が参列した[17]

デモ隊と治安部隊の衝突はエスカレートし続けた。7日には中部の都市タラで暴徒が警察署といった政府関連庁舎や銀行に火を放ち、8日夜から9日にかけてタラ、カスリーヌといった都市で高い失業率に抗議するデモが発生、治安部隊が発砲したことにより少なくとも14人[19]、野党側指導者によれば25人が死亡した[20][21]。10日にはカスリーヌで放火や警察署への襲撃が起こり、これに対処した警官隊が発砲したため市民4人が死亡した[22]。一連の弾圧で、犠牲者を診察した医師は、「(銃弾の跡から判断して)明らかに殺す意思があったと確認できる」と証言した。デモ参加者だけではなく、帰宅途中の労働者や、屋上にいた市民までもが殺害された。現場一帯は封鎖され、メディアが取材することはできなかったが、現地市民が携帯電話で撮影した映像がフェイスブックに投稿された。ベン=アリー大統領

10日夜、ベン=アリー大統領は再びテレビ演説を行った。デモの弾圧による流血そのものの存在は認めたものの、「私の責任ではない」と弁解し、カシム内務大臣の更迭を約束した[18]。全国の高校・大学の閉鎖や、今後2年間での30万人に及ぶ大規模な雇用緊急措置を発表したが、一連の暴動はテロリストによるものだと非難する姿勢は変わらなかった[23][24]。各政党からは、大統領に対し警官隊による発砲の中止を求める声があがった[25]

カスリーヌでの弾圧は裏目に出た。11日、デモはチュニスをはじめ全国に広がった。


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