ジャコ萬と鉄
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原作では九兵衛は自分の船で樺太を脱出しているが、1964年版では、ジャコ萬が自身の船を九兵衛に盗まれたという設定になっている。

原作では「タカ」は九兵衛の妻の名であるが、本作では九兵衛は妻を失っており、「タカ」は九兵衛の母親の名となっている。

ラストには原作にない以下の場面が追加されている。

ジャコ萬は、鉄の「てめえと九兵衛の喧嘩にヤン衆は関係ねえ」との説諭を受け入れ、ともに船を出して網上げに加わり、2人で喜び合う。終漁の日、ジャコ萬はユキとともに漁場をあとにする。鉄も宗太郎に漁場の将来を託す言葉をかけ、どこかへ去る。


出演者(1964年版)

順序は本作タイトルバックに、役名の一部は国立映画アーカイブ[10]によった。

鉄:高倉健

ジャコ萬:丹波哲郎

大阪(前科者のヤン衆):江原眞二郎

ユキ:高千穂ひづる

マサ(鉄の姉・宗太郎の妻):南田洋子

牧場の少女:入江若葉

九兵衛:山形勲

宗太郎(九兵衛の婿養子):大坂志郎

タカ(九兵衛の母):浦辺粂子大映

牧場の少女の恋人 - 小川守

スタッフ(1964年版)

監督:
深作欣二

企画:関政次郎、植木照男

脚本:黒沢明谷口千吉

梶野悳三作『鰊漁場』より


撮影:坪井誠

録音:廣上益弘

照明:原田政重

美術:近藤照男

(ノンクレジット:中村修一郎)


音楽:佐藤勝

編集:長沢嘉樹

助監督:野田幸男

進行主任:内田有作

現像:東映化学工業株式会社

協力:北海道積丹町

製作
企画

1949年の東宝版を封切り時に観て、興奮して夜も眠れなかったという高倉が、当時の東映東京撮影所所長・岡田茂に「やらせて下さい」と頼み込み[7]、「1964年は高倉を一億円スタアに仕立てる」と宣言していた岡田もそれに乗り、製作を決めた[11][12]。製作発表時は「ギャング路線」などの成功で意気上がる東映東京撮影所が男性映画の決定版をいかにこなすかが評論家筋に注目された[6]。高倉はすでに独特の存在感を示し始めてブレイク直前だった[13]

映画化が決まると高倉健は東宝撮影所に出向き、三船敏郎に挨拶した[14]。たまたま一人で部屋にいた三船は、高倉の訪問に立って歓迎し、自ら茶を入れた[14]。元々三船のファンだった高倉はすっかり感激し、以後三船をより尊敬するようになった[14]
撮影

1963年12月1日から20日まで、積丹半島・入舸町島武意海岸で80人規模[15]ロケーション撮影が行われた[5][6][15]。かつて同地は広い海岸がニシンで埋まり、一夜にして数千万円の儲けを生む「千石漁場」といわれた北海道有数の漁場だったが、1953年頃から不漁となり、夏には札幌方面から釣り客や海水浴客が押し寄せてにぎわうものの、番屋などは荒れ果てていた。スタッフは4000万円かけて番屋や運搬用トロッコのトンネルなどを改修した[15]

町は「歓迎・東映ロケ隊」のを押し立てて大歓迎し[15]、スタッフ・出演者は連日、ホッケなどの海の幸が食卓に並ぶ手厚いもてなしを受けたが、魚が嫌いでイカ刺しぐらいしか食べられなかった高倉はすき焼きが恋しかったという[15]

撮影の際、通常の作品は「天気待ち」として晴天を待つが、本作は極寒の北の海の荒涼とした「アジ」を出すため、オホーツク海の波濤が荒れる荒天を待って撮影した[16]

1949年版で鉄を演じた三船敏郎は、下半身はペンギンと呼ばれるゴムつなぎを着て、上半身は裸だったが[17]、ロケの前の晩に高倉が「いい映画が出来るなら、自分はフンドシ一丁でやるよ」と啖呵を切って引っ込みがつかなくなった[8][17]漁師は通常、全身にグリースを塗って冬の海に入るが、高倉はそうせず、まわりに「死ぬぞ」と忠告されながら無造作にマイナス16度の海に飛び込んだ[8][12][17]。すぐに引き上げられた高倉はその直後から「ゲエゲエ戻し、3日間寝こみ死にかけた[17]」。

それまで年長の監督から個性を伸ばすように育てられてきた高倉にとって、同学年の深作欣二とは合わなかった[13]。鋳型にはめ込む深作演出は窮屈で仕方なく、高倉はプロデューサーの吉田達に「押し付ける演出はもう嫌だ」としきりに漏らした[13]。深作も撮影終了後、周囲に「あんな下手な役者は二度と使わない」とこぼした[13][注釈 3]。高倉は本作あたりから映画に本腰を入れて取り組むようになったという[19]。 
作品の評価

由原木七朗東京新聞文化部)と小山耕二路(近代映画編集長)は以下のように評している。

「健さんは長い間、大根役者みたいに言われて来たけど、この作品では生き生きしている。健さんも立派な役者になったと思う。回りを固める南田洋子大坂志郎山形勲。みんないいね。いい意味で連鎖反応がこの作品に出ている。大坂さんなど日活でやると少々臭い芸になるが、ここではそれがなかったものね。山形さんは臭い芝居の方がいいんだ。監督の深作欣二も、単なるアクション監督でなく、壁を乗り越えた感じがする。大体二番煎じの作品は大抵うまくゆかないが、これはうまくいってる。サラッとしすぎるくらい、ダレがないのはいいんだ。近頃はリバイバル映画、わりとみんなうまくやるね。それだけ映画もやはり進歩してるんだと考えたいな」[8]

再上映

1994年秋、「健さん片想いの会」が吉祥寺バウスシアターで本作の上映会を開いた[19]。上映日は高倉主演の『四十七人の刺客』封切の前日で、本作上映は同会メンバー間のアンケート結果により決まったものである[19]

同会の谷充代は「参加メンバーにサプライズな贈り物が出来ないか」と考え、高倉に「何かメッセージを頂けないでしょうか」と手紙を書いた。高倉は自作の録音テープを送った。同テープは上映会で流された。内容は高倉がギター曲をバックに肉声で想い出などを語るもので、「本作はとても思い入れのある作品」と話し、上述のフンドシ一丁で海に飛び込んだエピソードなどを語った[19]


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