ジャコバン派
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しかし、革命を経るにつれて信念や政策によって分裂し、まず立憲君主派であるフイヤン派が、ついで穏健共和派であるジロンド派がこのクラブから脱退し、最終的に山岳派(Montagnards、モンタニャール、モンターニュ派とも)と呼ばれる急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り、主導権を握る(右図も参照のこと)。

そのため、まれに広義の意味としてジャコバン・クラブに属していた市民、または単に革命を支持する革命派を指してジャコバン派ということもあるが、一般的には後者の急進共和派(山岳派)を指して用いられる。実際、ラファイエットブリッソーなどのフイヤン派・ジロンド派の代表格も一時期ジャコバン・クラブに属していたが、彼らを指して「ジャコバン派である」と言うことは(紛らわしいため)まずない。ただしジロンド派がジャコバンの一部であるという考え自体は間違いではない。

一方で、急進共和派クラブであるコルドリエ・クラブ系の急進共和主義者たち(コルドリエ派)に対して用いる場合もある。この場合はクラブの違いを意識して区別されるだけであり、両者に立場的違いがはっきりあるわけではない。
経緯
設立ジャコバン・クラブの変遷

三部会の第三身分の議員のうち、ブルターニュ出身議員で構成されたブルトン・クラブが原型である。ヴェルサイユ行進ののち、ジャコバン修道院で集会が行われるようになり、ジャコバン・クラブと呼ばれるようになる。
ジャコバン派成立まで
立憲君主派(フイヤン派)の脱退

1790年の3?6月にかけて、ラファイエットやバイイら立憲君主派はジャコバン・クラブから脱退し、89年クラブを創設した。一方、ジャコバン・クラブ内では1791年6月の、ルイ16世一家の国外逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)や7月のシャン・ド・マルスの虐殺を期に、国王の責任を追及する左派と、議会と国王を共存させようとする右派が対立した。

この時期、バルナーヴやデュポール、ラメット兄弟などの右派(つまり三頭派)がジャコバン・クラブから相次いで脱退。これに先の89年クラブが合流し、フイヤン・クラブ(フイヤン派)が創設された。この時点でジャコバン・クラブからは立憲君主派が消え、残ったのは、穏健・及び急進的共和派となった。
穏健共和派(ジロンド派)の脱退8月10日事件

1792年、他のヨーロッパ諸国との戦争の気運が高まる。それに対し、ジャコバン・クラブ内では、主戦派と反戦派との対立が始まる。この対立は、主戦派=穏健共和派(ジロンド派)、反戦派=急進共和派(ジャコバン派)という構図であったが、議会では主戦派のジロンド派が実権を握り、4月20日オーストリアに対し、宣戦を布告した。しかし、破産状態のフランスは戦備が整っておらず、兵士も未訓練で、革命の余波が軍隊に及んで指揮系統が機能しないフランス軍は敗戦を重ねる(またこのとき、王妃マリー・アントワネットがフランス軍の作戦を敵軍へ提供していたと言われている。)

プロシア軍が参戦するなどの情勢の変化や度重なる敗戦の中、拒否権を発動するルイ16世によって国政も停滞したため、反戦派の中心であったロベスピエールやダントンマラーが主導し、8月10日事件を機に王権の廃止を要求、実現させる。

やがて、国民公会と名のついた議会が召集される。この時点でジャコバン・クラブにはジロンド派・ジャコバン派両派閥の議員が混じって在籍していたが、ボルドークラブの人脈とブルジョワを支持基盤とするジロンド派と、民衆を支持基盤とする山岳派との対立が深刻になっており、ブリッソーを指導者とするジロンド派は、10月以降次々とジャコバン・クラブから脱退する。

こうしてジャコバン・クラブに残ったのは急進共和派だけとなり、ようやくジャコバン・クラブ=ジャコバン派と呼べる状況となる。また、急進共和派議員の多くは議会で議場後方の高い位置に陣取ったため、山岳派とも呼ばれた。
山岳派独裁
ジロンド派の追放

国王裁判でも対立したジロンド・ジャコバン両派であったが、国民投票執行猶予などにこだわったジロンド派に対して、ロベスピエールや、サン=ジュストといった山岳派の明確な主張が勝り、1793年1月21日、国王の処刑に至る。国外では全ヨーロッパを敵にし、国内では大衆の人気を失い、山岳派に圧倒され始めたジロンド派は、山岳派の主要人物の拘束を図るが、マラーやエベールに対して行われた裁判はいずれも無罪となり、法廷闘争でも敗北した。

エベール派やアンラジェを中心にしてコミューンが暴動(いわゆる五月蜂起)を煽るようになると、ジロンド派は攻撃の的を山岳派に絞るが5月26日にロベスピエールがジャコバン・クラブで行った演説によって失脚。5月31日?6月2日にかけて、機能不全となった政府に怒りを募らせた民衆の武装蜂起が起こり、ジロンド派は国民公会より武力で追放され、さらに逮捕・処刑された。ここに、ジャコバン派が主導する体制が確立する。
ジャコバン派内部での派閥闘争

やがて憲法は停止され、ロベスピエールも属した大公安委員会が革命の遂行のため、あらゆる権限を有するようになる。次第に彼らによる委員会独裁が始まり、内戦の激化によって反革命派の粛清といった必要から、非常手段としての恐怖政治を求める声がパリでは強くなっていく。しかし次第にそれが急進過激化すると多くの無関係の市民も処刑されるようにと変貌していった。

大胆な政策の実行や、反革命派の粛清により、一応の安定をみたフランス国内であったが、ジャコバン派内部で恐怖政治に対する見解の相違から、恐怖政治の緩和を求める寛容派(ダントン派・右派)と、恐怖政治をより強化するように求める矯激派(エベール派・左派)が山岳派と分裂する。両派の間に立つ山岳派内の中道左派(ロベスピエール派)は、分裂した双方の派閥をそれぞれ粛清し、自らの影響力を強化させて、自らの政策(主に貧者対策で、小土地所有農民の形成にあったとされる)を実現させようと、恐怖政治を継続させた。テルミドールのクーデタ
終焉

ロベスピエール派は少数グループで、もともと支持基盤が弱かったが、極端な権力の集中と恐怖政治の実行により、名目的な主導的地位にあったロベスピエール派に非難の矛先が向くようになり、最高存在の祭典やカトリーヌ・テオの神の母事件などで、ロベスピエールが独裁者となり、国王を目指しているのではないかというあらぬ疑念が広まって、次第に孤立していった。やがてテルミドールのクーデターが起こり、ロベスピエールが失脚すると、同年11月にジャコバン・クラブが閉鎖される。政権を手にしたテルミドール派は右派に転向して反動政治を行ったため、総裁政府時代にも、ジャコバン派残党ら左派勢力は徹底した粛清を受けた。

1795年、すべての政治クラブの活動が禁止されると、地方に存在していたジャコバン派の勢力も急速に衰退する。ただしナポレオンによるブリュメールのクーデター1799年)時にはフランス全土におよそ一万人のジャコバン派とされる実勢力はあった。しかしナポレオン体制下でも引き続き弾圧を受け、政治的勢力としての存在は消滅した。

ジャコバン派の思想そのものはバブーフ共産主義の先駆とされるネオ・ジャコバンや、フランス7月革命1848年革命などの19世紀の諸革命を通して受け継がれ、共産主義思想やロシア革命に受け継がれるのであった。
政策

1793年、通称ジャコバン憲法と呼ばれる憲法が採択される。これはジャコバン・山岳派の理想が反映された初の普通選挙を基にする憲法であったが、国内外の戦争のために、結局、選挙が行えず、施行されることもなかった。公安委員会を中心にして、一般最高価格法(フランス語版)や革命暦の採用などが行われていった。

1794年2月4日にプリュヴィオーズ16日法を可決し、全フランス領での奴隷制の廃止を決議した[注釈 6]。この決議を受けてサン=ドマングの実力者トゥーサン・ルーヴェルチュール[注釈 7]はフランスへの帰属を決めた。

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ジャコバン派内部における党派

派内での対立が深刻になる以前は、マラーダントンロベスピエールの3人を指して「ジャコバン三巨頭」と呼んだ。
エベール派(矯激派)矯激派の領袖格とされたエベール


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