ジャコバン派
[Wikipedia|▼Menu]
エベール派(矯激派)矯激派の領袖格とされたエベール

急進左派で、極左勢力。別名、矯激派。主要なメンバーの一人であるジャック・ルネ・エベールの名を冠するが、特にリーダーは不在。政策も曖昧で、矯激派や跳ね返り分子と言われたのは、アジテーションだけで内容がなかったことに由来する。無教養なサン・キュロット、下層貧民を支持基盤としており、むしろ議会の外、パリ・コミューンに強い勢力を持っていた。しばしば革命政府を「なまぬるい」として非難し、さらなる革命の推進(つまり恐怖政治の強化)を要求。エベールの発行する新聞『デュシェーヌ親父』を通して人気を獲得し、一方で新聞を軍に専売することでの不正蓄財もあり、議会転覆を狙って民衆の蜂起(いわゆる三月蜂起)を促すなどしたため、ロベスピエール派のみならず他の全ての党派から危険視され、粛清された。また、汚い野次や根も葉もない告発を行う議員も多く、その点もロベスピエール個人から嫌われる原因となった。

アナカルシス・クローツ(英語版)ら無神論者が理論的指導者のなかにおり、反キリスト教政策を掲げて、「理性の崇拝」を進めたのもこのグループ。またマリー・アントワネットの処刑、ジロンド派の追放、ヴァンデでの虐殺でも主導的役割を果たした。メンバーは名前をギリシャ名に変えたという特徴がある。ジャック・ルーら「アンラジェ」(過激派/激昂派、派外勢力)とは考えは近いが、両派は対立関係にあった。
ダントン派(寛容派)寛容派領袖ダントン

ジャコバンの右派勢力。別名、寛容派。ジョルジュ・ダントンを領袖に、カミーユ・デムーラン、エドー・ド・セシェルなども有力なメンバー。や女、ギャンブルなどで人生を楽しんでいた享楽的な人物が多いのが特徴。ジャコバンを支持するブルジョワ層とのつながりが深く、ジャコバン派(ないしコルドリエ派)の中では最も穏健なグループである。ジロンド派との抗争の際には、ジロンド派内閣では入閣したこともあったため、彼らとの融和に努めたが、ダントンらの努力はジロンド派の議員によって拒絶されて無駄になった。ダントン派と激しく敵対したエベール派の処刑後、先んじてこれに寛容な態度を要求したことで知られ、恐怖政治の終了や、フランス革命戦争の終結などを主張した。しかし未だ改革半ばで、革命の継続をはかるロベスピエール派(直接的にはサン=ジュスト)は、主導権を奪われることを恐れて、王党派との内通罪という事実無根の罪をでっち上げて、粛清することにした。

リーダーであるダントンは個人的に人気があり、民衆への影響力も大きかった。またダントンやデムーランは、個人的にはロベスピエールとは親友の関係にあった。そのため彼らの粛清を決めたロベスピエールは逮捕に際して顔面蒼白になったと言われる。バラスとフレロンはダントン派の生き残りであり、テルミドールのクーデタでは彼らには個人的な復讐という動機もあった。
ロベスピエール派(中道左派)中道左派領袖ロベスピエール

便宜的に中道派と呼ばれることがあるが、実際の中道派は平原派である[注釈 8]。厳密にいうと中道左派ないし左派中道である。派内闘争に勝ち抜き、最後まで革命の中心たらんとしたグループ。マクシミリアン・ロベスピエールを領袖とし、サン=ジュストクートンとの三頭政治を行った(この場合も、この3人を「ジャコバン三頭」と呼ぶことがある)。ルバも含めて、個人的な友情のつながりを重視するという特徴があり、少数の友愛同志だけで構成される。

矯激派のエベール一派、寛容派のダントン一派を粛清した後、ロベスピエール派は影響力は強まったが、公安委員会政府の主導的役割を果たしていたものの、公安委員会の12人(ダントン派粛清後は1名欠員)のうち同派はわずか3名のみで、保安委員会には同派は1人しかいなかった。議会でも少数派であるがゆえに、ロベスピエールらが提案した法案を議会に通すには平原派や無党派のジャコバン派議員の協力は不可欠だったのであり、独裁的に振舞った事実はない[注釈 9]。このためサン=ジュストが提出した法案のいくつかは否決されている。ロベスピエールは政策を推し進めるには、議会やクラブで演説して、聴衆を説得する必要があった[注釈 10]。ロベスピエール派の支持基盤は議会にはなく、パリのジャコバン派民衆であり、アンリオが指揮する国民衛兵隊および武装民兵であった。ジャコバンでない山岳派と呼ばれたカルノー

しかし、身にやましいことのある議員や、地方で極端な虐殺・汚職を行った派遣議員達は、パリに召還されると、清廉潔白で潔癖症とも言うべき独裁三頭からの告発を恐れるようになる。猛威を振るい始めた革命裁判所での処刑を恐れ、武装民兵の脅迫をうけていた議員達は、ロベスピエールに反対できなくなっていたが、ジョゼフ・フーシェの陰謀により結束した反ロベスピエール派議員たちがテルミドールのクーデタを起こすと、いっせいに無党派がこれを支持。最後は武力で打倒された。
無党派の山岳派

ラザール・カルノーやサン=タンドレ、プリュール・ド・ラ・コート=ドールなどに代表される山岳派に属する無党派議員。一部は平原派と混同されるが、ジロンド派追放後の議会では最大派閥だった。フランス革命当時は政党が存在しないため、議員は個々人の信条で行動して、実のところ党派はそれほど明確ではなかった。党派は後世の史家が創った便宜的な括りという面が少なくない。彼らのような無党派議員は、特に領袖となるリーダーを持たないかわりに、それぞれの法案で独自の投票行動をしており、(カルノーなどの頑固者は除いて)そのつど主流となった政治家に追随した。ネオ・ジャコバンに属したバフーフ

無党派のなかにも、左派と右派、中道がおり、コロー=デルボワビヨー=ヴァレンヌはエベール派のシンパとされた極左である。テルミドール後は、これら極左は追放され、右派と中道、若干の左派残党の日和見主義者達は、一部はテルミドール派と合流、一部はネオ・ジャコバンへ、残りは総裁政府議会の共和派諸派となった。
ネオ・ジャコバン

恐怖政治的な革命独裁を信奉した一派で、ブランキ派や第一インターナショナルの労働者らとともにパリ・コミューンの評議会を構成した[10]

後発の最も過激な平等主義者のグループ。あまりに極端な主張であるため、一部でしか支持を得られず、また弾圧の対象でもあった。私有財産の廃止を求めるなど、分配重視の初期社会主義的な主張をしていた。共産主義のルーツとして知られ、フランソワ・ノエル・バブーフ、国際的な職業革命家のフィリッポ・ブオナロッティなどがそのメンバーとして挙げられる。

革命中は勢力を誇ることはなかったが、むしろ革命後の19世紀の諸革命でその思想を浸透させ、ジャコバン主義を共産主義へとつないだ。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ジャコブ」とは、ユダヤ人の祖である「ヤコブ(イスラエル)」に由来する人名「ヤコブ」のフランス語読みである。つまり「ジャコバン派」とは「ヤコブ派」である。
^ パリには「ジャコバン修道院」という名の修道院が歴史上2つあるため、区別のために「サントノレ通りのジャコバン修道院」(Couvent des Jacobins de la rue Saint-Honore)ともいう。
^ 1789年から1792年まで使われた名称[3]
^ 日本大百科全書では「自由と平等の友なるジャコバン・クラブ」と訳している[1]
^ 1792年9月以降に使われた名称[1]
^ ジャコバン派はサン=ドマングハイチ)での黒人奴隷の反乱を受け、西欧世界初の奴隷制廃止を決議した。この決議はナポレオン・ボナパルトによって反故にされるまで効力を保った。
^ トリニダード・トバゴC・L・R・ジェームズは、1938年にルーヴェルチュールを「ブラック・ジャコバン」と評した。
^ ロベスピエール派が中道派と呼ばれる場合は、(左派である)ジャコバン派の中でのという意味であり、フランス革命の全体からみれば必然的に中道左派になる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:101 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef