ジャクリーン・ケネディ
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1952年5月、記者でありケネディ兄弟の友人だったチャールズ・バートレット(Charles L. Bartlett)家のパーティーで、ジャクリーンは当時下院議員でその年の秋の上院議員選挙を目指していたジョン・F・ケネディ(ジャック)と知り合った。ジャックがジャクリーンを父親の「ジョー」(ジョセフ・P・ケネディ)に紹介すると、ジョーは彼女をすぐに気にいった。学歴と気品があり、カトリック教徒で、何より資産家の令嬢である。彼女こそがケネディ家の嫁にふさわしく、将来合衆国大統領のファーストレディとなるべく資質を備えているとジョーは見たのだ[15]

そして1953年5月英王室のエリザベス二世戴冠式にジャクリーンが取材でロンドン滞在中にケネディから電報でプロポーズされ[16]、ジャクリーンは「オムニ・パーカー・ハウス・ホテル」でこのプロポーズを受け入れた。[17]花嫁姿のジャクリーン(1953年)

1953年9月12日、36歳の上院議員ジョン・F・ケネディと24歳のジャクリーン・ブービエはロードアイランド州ニューポートの聖マリア・カトリック教会で結婚式を挙げた。ボストン大司教リチャード・クッシングの司式で700人が参列した式では、時のローマ教皇ピウス12世の祝電が読みあげられた[注 2]。オーチンクロス家の所有するハマースミス・ファームで行われたレセプションは1200人のゲストが招かれる社交界の一大イベントであった。新婚旅行から戻った二人はバージニア州マクレーンのヒッコリーヒルに新居を構えた。
夫の闘病

結婚して1年あまり経った1954年10月、ケネディは脊椎の手術を受けることになった。政治家としてのイメージを傷つけるものとして秘密とされていたが、ケネディはかねてより健康状態に大きな問題を抱えていた。それはアジソン病、恒常的な頭痛、胃痛、腹痛、腰痛、排尿障害、前立腺の炎症などであった[19]。これらの中で特にケネディを苦しめたのは腰痛であった。このころの彼は松葉杖なしには歩けず、自分で靴下を履くのも苦しいほどであった。検査の結果、第五腰椎がつぶれていることがわかった。医師団は手術が必要だが、アジソン病の影響で手術には大きなリスクが伴うことを説明した。手術は断行されたが、予想通り術後の経過が悪く、危篤状態に陥って(カトリック教徒が臨終時に司祭から受ける)終油の秘跡まで受けた。その後なんとか持ち直したものの、ケネディは半年もの間ベッドから立ち上がることができなかった。そのような状態にあったケネディをジャクリーンは献身的に支え、ケネディのためにグレース・ケリーを病室に呼ぶほどであった[20]

ジャクリーンにとって辛い時期は続く。結婚後に最初の子は流産し、1956年に初めての女児を生んだが死産であった[注 3]。また、結婚しても変わらないケネディの女癖の悪さに傷ついていたジャクリーンに、死産のニュースを聞いても地中海でのクルーズから戻らなかった夫への不信感がとどめを刺し、彼女は離婚を真剣に考えるようになった。彼女はこれを義妹のエセル・ケネディに話したため、話が義父ジョーに伝わった。ジョーは彼女を呼んで、離婚はカトリック教徒であり、政治家であるジャックにとって致命的なイメージダウンになるため結婚生活を続けてくれるよう頼み、もし子供が生まれたら一人につき100万ドルの信託財産を与えると約束してジャクリーンを翻意させたという[21]

ジャクリーンはその後、キャロライン(1957年11月29日)、ジョン・ジュニア(1960年11月25日)を続けて生んだ[注 4]
ファーストレディ大統領選挙に立候補したジョンとジャクリーン。ウィスコンシン州予備選挙にて(1960年5月)

1960年の大統領選挙では、妊娠していたジャクリーンもほかのケネディ家のメンバーと同じように選挙運動に駆り出された。1960年11月9日、ケネディは僅差でリチャード・ニクソンに勝利し、第35代アメリカ合衆国大統領に選出された。1961年1月20日に就任式を行い、ジャクリーンはファーストレディとして二人の子供を連れてホワイトハウスに入った。31歳のファーストレディは(21歳のクリーブランド大統領夫人、24歳のタイラー大統領後妻ジュリア夫人に次いで)アメリカの歴史上3番目に若かった。TV番組『A tour of the White house』 (1962年)

ファーストレディとなってホワイトハウスに入ったジャクリーンは、まずホワイトハウス内部のリフォームと家具や備品の管理に積極的に取り組んだ。これはそれまでにホワイトハウスの近代化を図る名目で歴史的に由緒あるものや家具がホワイトハウスから出されて、ジャクリーンがホワイトハウスに入ったころにはすでに18世紀頃の輝きを失っていた。そこで全ての部屋の暗い色調の壁やカーテンを明るく、若さと気品を感じさせるものに変え、また絵画や家具などの調度品も国内の骨董業者から仕入れ、彼女の感性でホワイトハウスをアメリカ文化を象徴する空間に改装した。ジャクリーンはホワイトハウスを「この国で一番素晴らしい家であり、人びとが誇りに思い、この国の歴史を伝える生きた博物館のようなものでなければならない。」[23]と語って、こうしてホワイトハウスを美しく飾り立てた。ただしホワイトハウスの年間維持費を僅か1カ月で使い切ったといわれる[2]

しかしその後1962年2月14日にCBS.NBCで[注 5]『A Tour of the White House with Mrs. John F. Kennedy』 が放送されて、テレビで初めて公開された新しいホワイトハウスは評判を呼び政府のイメージアップと費用以上の効果をもたらした。


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