ジャガイモ
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「治助イモ」 - 東京都奥多摩町の特産[23]

「アップラ」「アンプラ」「カンプラ」- オランダ語のaardappel(大地のりんご)に由来する呼称も存在する[24]

「イモ」「エモ」- アイヌ語。日本語の「いも」が由来。「五升芋」が訛った「コソイミ」という呼称もある[25]

歴史

南アメリカ大陸アンデス山脈が原産で、小さなイモの原種が中南米自生している[26]大航海時代ヨーロッパ各地に伝わり、日本へは東南アジアを経て16世紀に伝わった[27]。保存性が高く、当時の船乗りたちの食料として重宝された[27]品種改良が繰り返されて、現在のような大型のイモをつけるような品種が開発されており[26]、世界中の温帯地域で広く栽培されている[26]。「en:History of the potato」も参照
ジャガイモの利用史インカ帝国時代の耕作風景。チャキタクリャ踏み鋤)で耕し、種芋を植え付ける。ワマン・ポマの絵文書より。

ジャガイモは、南アメリカアンデス中南部、ペルー南部に位置するチチカカ湖畔が発祥とされる[28][29]標高3,000 - 4,000メートルの高地で、500年ごろに栽培されたと考えられている[11]。最も初期に栽培化されたジャガイモは、Solanum stenotomum と呼ばれる染色体数24本の二倍体のもので、その後に四倍体の Solanum tuberosum が栽培化され、現在世界中で広く普及するに至ったとされている[30]

このジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀ごろとされている。当初、インカ帝国の食の基盤はトウモロコシではないかと伝えられていたが、ワマン・ポマが1615年に残した記録や[31]マチュ・ピチュの段々畑の史跡研究、気象地理条件[注釈 1]、食生活の解析[注釈 2]など、複数方面からの結果が、食基盤がジャガイモであったことを示しており、見直しが図られている[32]

しかし、具体的に「いつ」「誰が」伝えたのかについてはっきりとした資料は残っておらず、スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年ごろで、新大陸の「お土産」として船乗りや兵士たちによってもたらされたものであろうと推測付けられている[33]。さらに1600年ごろになるとスペインからヨーロッパ諸国に伝播するが、この伝播方法にも諸説あり、はっきりとは判明していない[34]

いずれにせよ、16世紀末から17世紀にかけては、植物学者による菜園栽培が主であり[注釈 3]、ヨーロッパの一般家庭に食料としてジャガイモが普及するのは、さらに時を待たねばならない。普及は、プロイセン王国三十年戦争により荒廃し、飢饉が頻発した際に作付け(栽培)が国王の勅命により強制、奨励されたことや、踏み荒らされると収穫が著しく減少するに代わり、地下に実るため踏み荒らしの影響を受け難い作物として、農民に容易に受け入れられた結果である[35]

プロイセン王国(ドイツ)での広まりで、国力を増したと聞きつけたフランス王国ブルボン朝でも広めようと、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットが帽子にジャガイモの花を飾ったと伝えられる[11]。食用作物として本格的に栽培が始められたのは、17世紀のアイルランドで、さらにジャガイモは1621年に、アイルランド移民の手により北アメリカへ渡り[11]アメリカ独立戦争における兵士たちの袋を満たす、貴重な食料源となった。
アイルランドとジャガイモ飢饉アイルランドと1750年からのヨーロッパの人口の変動。1845年から49年にかけてのアイルランドでのジャガイモ飢饉の悲惨な結果とそれ以前の人口増加を表している。

アイルランド小作農家たちは元来は主にムギを栽培していたが、厳しいイギリス帝国の植民地支配の下で、ムギは地代として地主に収奪されるため、地代にとられることのない生産性の高いジャガイモを、自分らの小さな庭地で栽培し始めた。それによって、ジャガイモが貧農の唯一の食料となってゆき、飢饉直前には人口の3割がジャガイモに食料を依存する状態になっていた。

「アイリッシュ・ランパー」(Irish Lumper) と呼ばれる、アイルランドのジャガイモ種は寒冷地でも良く育ち、アイルランド人口の増加を支えた。しかし、1845年から1849年の4年間にわたって、ヨーロッパでジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。ジャガイモを主食としていた被支配層のアイルランド人の間からは、ジャガイモ飢饉で100万人以上ともいわれる多数の餓死者を出した。

また、イングランド、北アメリカ、オーストラリア大陸へ、計200万人以上が移住したといわれる。アメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民は、アメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力をもつようになった。この時代のアメリカ合衆国への移民の中には、ケネディ家の先祖も含まれていた。

アイルランドでのジャガイモ飢饉があったものの、寒冷地にも強く、年に複数回の栽培が可能で、地中に作られることから、鳥害にも影響されないジャガイモは、庶民の食料として爆発的な普及を見せ、瞬く間にトウモロコシに並ぶ「世界四大作物」として、その地位を確立した。アダム・スミスは『国富論』において「小麦の三倍の生産量がある」と評価している。
日本への伝来

諸説あるが、1598年にオランダ人によって持ち込まれたとされる[3]ジャワ島ジャガタラを経由して長崎へ伝来したためジャガタライモと呼称されたが、それが短縮されジャガイモとなった[3]

江戸時代後期の18世紀末には、ロシア人の影響で北海道東北地方に移入され、飢饉対策として栽培された[11]蘭学者高野長英は、ジャガイモ栽培を奨励している。また江戸後期には、甲斐国の代官であった中井清太夫がジャガイモ栽培を奨励したとされ、享和元年(1801年)には小野蘭山が甲斐国黒平村(山梨県甲府市)においてジャガイモの栽培を記録している(『甲駿豆相採薬記』)[36]


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