ジム・モリソン
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モリソンはマンザレクと兄リック・マンザレクに加えメディテーション・センターで出会ったジョン・デンズモアと共にデモ音源を制作。その後脱退したリックに代わり、同じメディテーション・センターの仲間だったロビー・クリーガーを参加させる。こうしてドアーズが完成した。詩人としての側面も有名であったがらドアーズの作詞はクリーガーと共に行った。

バンド名は、オルダス・ハックスレーの『知覚の扉(The Doors of Perception)』(ウィリアム・ブレークの詩「忘れがたい幻想」に由来)に由来する[11][12]

モリソンの自称「ミスター・モジョ・ライジン(Mr. Mojo Risin’)」は"Jim Morrison"のアナグラムであり、彼の参加した最後のアルバムに収録された「L.A.ウーマン」のリフレインに用いられた。さらにモリソンは「トカゲの王(The Lizard King)」と呼ばれた。これはアルバム『太陽を待ちながら』の中に現れる彼の有名な叙事詩「セレブレーション・オブ・ザ・リザード」から来ており、それは1990年代にミュージカルとして上演された。

ドアーズの結成前からモリソンは酒豪であり、過剰飲酒に耽っていた。時にはスタジオでも酩酊していたモリソンの様子は時折録音された。「ファイヴ・トゥ・ワン」には、自身のしゃっくりを録音させたまた、ジミ・ヘンドリックスとのセッションでも酩酊した様子が録音されている。なお、モリソンは同時期にパトリシア・ケネリーと結婚している。

1969年3月、フロリダ州マイアミでモリソンは自慰行為を見せた容疑で公然わいせつ罪で逮捕され、後に有罪判決を受けた。この不祥事によってドアーズ自体が反社会的バンドと非難され、公演活動は次第に縮小を余儀なくされた。1970年12月12日のルイジアナ州ニューオーリンズ公演を最後に、モリソンは公演活動を停止。1971年1月に『L.A.ウーマン』の録音を終えると、同年3月、著作に専念するためパリへ移り住んだ。
死去モリソンの墓

1971年7月3日、モリソンはパリル・マレのアパートにある浴槽の中で死去した。第一発見者は当時交際していたパメラ・カーソン(英語版)であった。事件性がないと判断したパリ市警察は検死を行わず、死因は心臓発作と発表した。しかし、パメラの証言から薬物の過剰摂取が死の原因であるとも考えられている[13]。また、マリアンヌ・フェイスフルも、薬物摂取の概ねを明らかにしている[14]。なお、モリソンには本妻であるパトリシア・ケネリーが別に存在していた。

彼の遺体はパリの東にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、この墓地はパリの人気観光名所の一つとなっている。一時は訪れるファンによる落書きやゴミの放置が問題視され、墓所を移転することも検討されたが、後にこの可能性は公式に否定された[15]

モリソンの死はブライアン・ジョーンズジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスに続くロック・スターの悲劇となった。偶然にも彼らは同じ27歳で死亡しており、27クラブというロック界におけるひとつのジンクスとなっている。
死後モニュメント

2007年春、ドアーズのファンが1969年のマイアミ公演でモリソンが犯したとされる公然わいせつ罪について、恩赦を要請する手紙をフロリダ州知事に宛てて送った[16]。2010年12月、事件後40年を経て恩赦が与えられた[17]

2013年6月5日、体長が約180cm、最大で2kgと推定される巨大な化石種のトカゲに、モリソンに因んで、「Barbaturex morrisoni」の名が与えられた。モリソンが爬虫類に関心を寄せていたためとされる[18]
音楽的影響

ジム・モリソンを失ったドアーズは、残された3人のみでドアーズの名を継承する道を選んだ。しかし、モリソンの影響力は大きかったと見えて、2枚のフル・アルバムを発表したものの、商業的に成功とは言えず、結局解散する。その後も、ドアーズの人気は衰えず、数多のコピー・バンドが現れた。2007年には、自分はジム・モリソンの息子だと主張する男が、クリフ・モリソンの名前でユーチューブに登場し、リザード・サンというバンドをバックに、以後も活動を続けている。彼は一時、ロビー・クリーガーの息子と共演していた。

彼のステージ上での扇情的なパフォーマンスと、ドラッグとアルコールへの耽溺による破滅的な生き方は、後の世代のロックミュージシャンに大きな影響を与えた。ストゥージスイギー・ポップも、1967年にミシガン大学で彼のパフォーマンスを見て強い影響を受けた。[19]

一方でザ・ストロークスのヴォーカリスト、ジュリアン・カサブランカスは、ジム・モリソンの破滅的なライフスタイルに否定的で「それじゃあうまく行かない。彼は27歳で死んだだろ。僕はそういう陳腐なところをマネして生きていたと思う。ホントに荒んだような気がしてた。それで、自分が本当にやりたいのはポジティヴなものを作ることなんだって気づいたんだ」と語っている。[20]

パール・ジャムのボーカリストとして知られるエディ・ヴェダーもジム・モリソンから大きな影響を受けた一人として知られ[21]、ドアーズがロックの殿堂入りした際にはプレゼンターを務め、ドアーズのメンバーと共に、ハートに火をつけてと、ロードハウスブルースと、ブレイク・オン・スルーを演奏した。[22][23][24] 
書籍

「神」「新しい創造物」:The Lords and the New Creatures (1969). 1985 edition:
ISBN 0-7119-0552-5。篠原一郎訳 新宿書房 (2005) ISBN 978-4880083452

アメリカン・プレイヤー」:An American Prayer (1970) privately printed by Western Lithographers. (Unauthorized edition also published in 1983, Zeppelin Publishing Company, ISBN 0-915628-46-5. The authenticity of the unauthorized edition has been disputed.)

演じた俳優

ヴァル・キルマー:映画『ドアーズ』(1991年アメリカ映画)

脚注^ 米誌が「最も偉大なシンガー」発表、あの“ソウルの女王”が1位に。
^史上最も偉大なシンガー100人 ベスト1?50位(2)
^ “ ⇒Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
^ Nesta Roberts (September 10, 1971). Flower bower. UK. p. 13 
^ James Riordan; Jerry Prochnicky (1992). Break on Through: The Life and Death of Jim Morrison. It Books. pp. 416, 467. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-0-688-11915-7 


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