モリソンは自身の歌にこの出来事をたびたび登場させている。ただし、モリソンの伝記『No One Here Gets Out Alive』によると、この事故に関して異なった記憶を持っている父と妹は、インディアン居留地で事故に遭遇した時、幼いモリソンがひどく動揺したと述べている(モリソン以外の、生き残った)。ドアーズのメンバーによる本The Doorsでは、父の発言は「我々は幾人かのインディアンの脇を通り過ぎた。それが幼いジェームズに何らかの印象を生んだ。彼は泣き叫ぶインディアンのことをずっと考えた」(We went by several Indians. It did make an impression on him [the young James]. He always thought about that crying Indian)である。これはモリソンの発言「彼らはハイウェイ中にまき散らされ、血を流して死んでいた」とは対照的である。同書は妹による以下の発言も掲載している。「彼はあの話を、語り、誇張することを楽しんだのよ。彼は道路脇に死んだインディアンを見た、と言ったけれど、本当にそうだったかどうか、分かったもんじゃないわ」(He enjoyed telling that story and exaggerating it. He said he saw a dead Indian by the side of the road, and I don't even know if that's true)[8]。
一家は父の異動に伴い転居を重ねた。そのためか内向的な性格を持ち、文学に関心を寄せるようになったモリソンは、特に幾人もの哲学者や詩人から影響を受けた。ニーチェの美学や道徳論、アポロン的・ディオニソス的(英語版)な二項対立の影響を受けた(その影響は後の彼の歌にも表れている)。またプルタルコスの『対比列伝』、フランスの象徴主義の詩人アルチュール・ランボーの作品(後のモリソンの散文詩の形式に影響を与えた)などである。またウィリアム・S・バロウズ、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、ローレンス・ファーリンゲッティ(英語版、シンプル英語版)、シャルル・ボードレール、モリエール、フランツ・カフカ、アルベール・カミュ、オノレ・ド・バルザック、ジャン・コクトー、それと実存主義の哲学者のほとんどの影響も受けた[8][9]。
高校時代の英語科教師によると、モリソンは他のどの生徒よりも読書家だったという。ただし、モリソンは時折存在が疑われる本をレポートで扱う事があった。その本は16世紀や17世紀の悪魔学に関する本であり、英語教師はそうした本に関する見識を持たなかったのである。アメリカ議会図書館に赴いた別の教師に依頼して確認したところ、確かに本は存在していた。モリソンがその本(おそらくアメリカ議会図書館でしか読めないような本)を読んだというレポートを読んで、感銘を受けた[10]。
高校卒業後はフロリダ州立大学に入学するが、哲学や詩に傾倒したモリソンは、1964年1月に家族の反対を押し切りカリフォルニア大学ロサンゼルス校に編入し、映画を専攻した(なお、同級生にフランシス・フォード・コッポラがいた)。
ドアーズザ・ドアーズ (1965年-1972年)詳細は「ドアーズ」を参照
1965年夏、大学でレイ・マンザレクに出会ったモリソンは、彼に自作の詩を読んで聞かせた。マンザレクは彼の詩に惹かれ、バンドを組むことにする。モリソンはマンザレクと兄リック・マンザレクに加えメディテーション・センターで出会ったジョン・デンズモアと共にデモ音源を制作。その後脱退したリックに代わり、同じメディテーション・センターの仲間だったロビー・クリーガーを参加させる。こうしてドアーズが完成した。詩人としての側面も有名であったがらドアーズの作詞はクリーガーと共に行った。
バンド名は、オルダス・ハックスレーの『知覚の扉(The Doors of Perception)』(ウィリアム・ブレークの詩「忘れがたい幻想」に由来)に由来する[11][12]。