ジミー・ロジャーズ_(カントリー歌手)
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しかしじっとしているのはロジャーズの性分ではなく、常にツアーを行いレコーディングを行うことで、病気からの快復のチャンスが失われていった。

アメリカ合衆国は世界恐慌の直中に入り、レコードを売るという商売も衰退していたので、1933年5月、ロジャーズは再度ニューヨークに乗り込んで、5月17日から録音を始めた。初日は1人で演奏し、4曲を録音した。1日休んだ後にスタジオに戻ってくると、座ったまま録音するしかなく、間もなくリハーサルしていた曲を完成させるエネルギーを回復させるためにはホテルにもどるしかなくなった。数日後にロジャーズがスタジオに戻ったとき、録音技師はロジャーズを援助するために2人のミュージシャンを雇った。『ミシシッピデルタ・ブルース』など数曲がこの3人で録音された。しかしその最後の曲はロジャーズが1人で演奏することにし、そのキャリアを締めくくるものとして『何年か前』を録音した。

ニューヨーク市での最後の録音を行った1933年5月24日、ロジャーズは何年も結核と闘った後であり、体力がなくなっていたので、歌の合間にはベッドで休むことを必要としていた[8]。2日後の5月26日、タフト・ホテルに泊まっていたジミー・ロジャーズは肺出血で死んだ。まだ35歳だった。
遺産メリディアンにあるジミー・ロジャーズの記念碑

1961年にカントリー・ミュージック殿堂博物館が建設されたとき、ロジャーズは最初に殿堂入りした3人の内の1人となった。他の2人は、音楽出版者でソングライターフレッド・ローズと、シンガーソングライターハンク・ウィリアムズだった。ソングライターの殿堂でもロジャーズは1970年に選ばれ、ロックの殿堂でも1986年"アーリー・インフルエンス"部門に選ばれた。『ブルーヨーデル第9』はロックンロールを形成した500曲の1つに選ばれた。2003年、カントリー・ミュージック・テレビジョンが選ぶ40人の偉大なカントリー・ミュージック人では第33位にランクされた。

1953年からは、ミシシッピ州メリディアンで毎年5月に、ロジャーズの命日にジミー・ロジャーズ記念祭が開催されている。最初の開催日は1953年5月26日、死後20年経った時だった。

歌うカウボーイのジーン・オートリーや、ルイジアナ州知事も務めた歌手のジミー・デイビス(『ユー・アー・マイ・サンシャイン』の作詞・作曲者)は、ジミー・ロジャーズの模倣者としてその経歴を始めた。マール・ハガード、ハンク・スノー、レフティ・フリッゼルは、ロジャーズにアルバムを献じている。1997年、ボブ・ディランはロジャーズの歌をカバーしたアーティストの演奏を編集して『ジミー・ロジャーズの歌、献呈』として発売した[9]。そのアーティストには、ボノアリソン・クラウスとユニオン・ステーション、ジェリー・ガルシア、ディッキー・ベッツドワイト・ヨアカムアーロン・ネヴィルジョン・メレンキャンプウィリー・ネルソンなどがいる[10]。ディランは以前に、「その歌は通常のものとは異なっている。個々の特質があり、高められた意識がある...その力に引きつけられた」と語っていた[11]

1969年、マール・ハガードは『同じ列車、違った時間: マール・ハガードが歌うジミー・ロジャーズの偉大な歌』を発売した。ハガードはそのベストセラーとなったアルバム『オーキー・フロム・マスコギー』(1969年)と『ファイティン・サイド・オブ・ミー』(1970年)の中で、『ノー・ハード・タイムズ』と『T.B.ブルース』もカバーしている。『ブルーヨーデル第1(テキサスのT)』はレーナード・スキナードがそのライブ・アルバム『ワン・モア・フロム・ザ・ロード』の中でカバーした。そのメンバーだったロニーは、1977年7月13日のニュージャージー州アズベリパークにおけるコンサートのインターミッションから、『テキサスのT』を演奏する前からジミー・ロジャーズやマール・ハガードのような古いカントリー音楽に興味を抱いていたと言うようになった[12]。レーナード・スキナードはその曲『鉄道の歌』の中で「私はこの列車に乗るようになる。神よ。ジミー・ロジャーズとハグが何であったかを見つけるまで」と歌ってもいる。トンポール・グレイザーも、カントリー音楽で初めてミリオンセラーとなったアルバム『ウォンティド! アウトローズ』の中で1つのバージョンをカバーしている。

1978年、アメリカ合衆国郵便公社は、芸能切手シリーズの第1弾として、ロジャーズを扱った13セント記念切手を発行した。この切手はジム・シャープがデザインし、ブレーキ係の服装でギターを持ち、2本の親指を立てており、背景には機関車のシルエットをあしらっている。

ロジャーズの遺産と影響はカントリー音楽のみに留まらなかった。2009年の著書『ジミー・ロジャーズと会う: アメリカのオリジナルルーツ・ミュージック・ヒーローが世紀のポップサウンドを如何に変えたか』は、幅広い音楽ジャンルを通じて国際的にロジャーズの影響を辿っている。オザークの詩人フランク・スタンフォードにも影響を与えて、一連の「ブルーヨーデル」詩となった。ロジャーズは1927年から1933年のアメリカ音楽界で最大級のスターだったが、当時のだれよりもブルースを人気あるものにすることに貢献した[10]。さらに多くのブルース・アーティストにも影響した。その中にはマディ・ウォーターズビッグ・ビル・ブルーンジー[13]、さらにハウリン・ウルフがいる。ジミー・ロジャーズはウルフが子供の時のアイドルだった。ウルフはロジャーズのヨーデルを真似しようとしたが、その音は唸ったり吠えたりしているように聞こえた。バリー・ギフォードはその「ローリング・ストーン」の中で、ウルフが「私はヨーデルが出来ずに、吠えることにした。それが私に合っていた」と語っていたとしている[14]

ロジャーズの影響は、トミー・ジョンソン、ミシシッピ・シークス、ミシシッピ・ジョン・ハート等のアーティストからも聞くことができる。ハートの『人魚と遊ばせてくれ』はロジャーズのヒット曲『列車を待ちながら』に基づいている[10]エルヴィス・プレスリーも重要な影響を受けた存在としてジミー・ロジャーズを挙げており、大ファンだったと言っていた[15]ジェリー・リー・ルイスはそのスタイルを参考にした存在としてロジャーズを挙げており、その曲の多くをカバーしている。ムーン・マリカン、トミー・ダンカンなど多くのウェスタン・スイングの歌手もロジャーズの影響を受けた。ジーン・オートリーの初期の歌の大半はロジャーズのブルースのレコードを写したものである。

クリント・イーストウッドが監督・主演した1982年の映画『センチメンタル・アドベンチャー』は、ロジャーズの生涯を題材にした。

ヴァン・モリソンの歌『窓掃除』はロジャーズについて聞いたことを歌うが、これは「ジミー・ロジャーズ」に言及しているように聞こえる。ブルース歌手としてのモリソンは同じ歌で他のブルース歌手のことを歌っているが、他のカントリーやウェスタンの歌手には言及しない。

著作『やらせ: ポピュラーミュージックの信頼性を求めて』では、『T.B.ブルース』が真に自伝的歌の最初のものだとされている。

2007年5月、ロジャーズの墓所近く、ミシシッピ・カントリー・ミュージック・トレイル沿いに2つ目の標識が建てられ、カントリー音楽の父としての役割を記している[16]

2010年5月28日、ロジャーズと共に録音したカントリー歌手として最後の生き残り、スリム・ブライアントが101歳で死んだ。彼らは1932年にブライアントの曲『母よ、私の心の女王』を録音した。エルトン・ジョンレオン・ラッセルの共同制作アルバム『ザ・ユニオン』には『ジミー・ロジャーズの夢』という歌があり、ロジャーズに捧げられている。

2013年、ロジャーズはブルースの殿堂にも入れられた[17]
レコーディング

曲名レコード番号録音日録音場所
兵士の恋人
“The Soldier’s Sweetheart”ビクター 208641927年8月4日
テネシー州ブリストル
眠れ赤子よ
“Sleep, Baby, Sleep”ビクター 208641927年8月4日テネシー州ブリストル
ベン・デューベリーの最後の走り
“Ben Dewberry’s Final Run”ビクター 212451927年11月30日ニュージャージー州カムデン
母は淑女だった
“Mother Was a Lady”ビクター 214331927年11月30日ニュージャージー州カムデン
ブルーヨーデル第1(テキサスのT)ビクター 211421927年11月30日ニュージャージー州カムデン


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