ジミ・ヘンドリックス
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没後50年経った現在でも、ロック史上最高のギタリストとして評価されており、ローリング・ストーン誌は歴史上最も偉大なギタリスト第一位として何度も選んでいるほか[注釈 2]、日本やブラジルの雑誌の同様のランキングでも1位となっている[注釈 3]。また、「ローリング・ストーン誌が選ぶ歴史上最も偉大な100組のスター」においては第6位に選ばれている。

27クラブの会員としても有名である。
生涯
生い立ちヘンドリックスの父方の祖父母 (1912年以前)

1942年、ワシントン州シアトルに生まれる (デビューアルバムの裏には「1945年生まれ」と記されている)。出生時の名前は、ジョニー・アレン・ヘンドリックス (Johnny Allen Hendrix) で、母ルシール (1925年 - 1958年) [注釈 4]によって名付けられた。父親のアルことジェームズ・アレン・ヘンドリックス (1919年 - 2002年) は、アフリカ系の父親と、アメリカ先住民の母親との間に生まれたブラック・インディアンである[5]。純血のチェロキー族だった父方の祖母ノラ・ヘンドリックスから、幼少期のヘンドリックスはチェロキー族の昔話を教えられたという。その影響はヘンドリックスの作る曲のそこかしこに見いだされる。母親のルシールは、17歳でヘンドリックスを産んだが、遊び好きで家庭を顧みないところがあったと言われ、まだ幼いヘンドリックスを置いて出奔したこともあるといい[6]、早くに亡くなっている。ヘンドリックスの楽曲「Angel (天使)」は、亡き母、ルシールが夢に現れたことから作られたとされる[7]

ヘンドリックスが生まれた当時、父アルは第二次大戦に召集され出征中だった。母親のルシールが出奔したため、ヘンドリックスはルシールの姉夫婦の元で育てられていた。終戦後の1945年、帰国した父アルがヘンドリックスを引き取り、父親と息子の生活が始まった[注釈 5]。この頃、ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックスと改名している[8]。父アルと母ルシールの折り合いが悪かった影響もあり、ヘンドリックスはたびたび祖母であるノラ・ヘンドリックスの元に預けられていたという。ノラはインディアン居留地(Reservation)に住んでおり、ヘンドリックスは祖母ノラからインディアンの昔話を聞かされるのと同時に、居留地で希望のない生活を送るインディアンたちの姿を目の当たりにしていたという(ヘンドリックスの談話)。「I Don't Live Today(今日を生きられない)」は、その体験から生まれたと言われる[9]
音楽への傾倒

多くのブルースロックのミュージシャンと同様、ヘンドリックスもレコードなどを聴いて、独学でギター演奏を学んだ (父アルの談話)。父親のアルは庭師の仕事をしていたが生活は貧しかった。ヘンドリックスが15歳の頃、ギターに興味を示したため[注釈 6]、父アルは、当時のアパートの家主の息子からアコースティック・ギターを5ドルで買い取り、ヘンドリックスに与えた[10]。その後、シアトルの楽器店から初めてエレクトリック・ギターを購入している (父アルの談話)。ヘンドリックスは、ブルースや R&Bロックンロールのレコードを聴き練習する一方、テレビのアニメーション作品などの効果音 (BGM) も熱心にコピーしていたという (ヘンドリックスの幼なじみの談話)[11]

青年期のヘンドリックスは、アマチュア・バンドで経験を積み、全米ナンバー・ワンバンドの座を得たこともあったという (父アルの談話[12])。軍隊に配属中のヘンドリックス (1961年)

しかし、自動車窃盗の罪で1961年5月2日に逮捕された。その際、投獄されるのを回避するため陸軍に志願して入隊し、精鋭部隊・第101空挺師団へ配属された。共に軍役についていた仲間の中に、後のバンド・オブ・ジプシーズを組むベーシストのビリー・コックスがおり、軍隊内のクラブハウスで一緒に演奏することもあった[13]。当時はベトナム戦争が開戦したばかりの時期で、ヘンドリックスはベトナムの戦地に行っていないが、この従軍の経験がウッドストック・フェスティバルでの「星条旗 (アメリカ国歌)」の演奏や、バンド・オブ・ジプシーズの「マシン・ガン」の創作につながったと言われている[14]

やがてヘンドリックスは陸軍を除隊。イギリス人の音楽記者クリス・ウェルチが70年代初めに著した伝記[15]などでは、「パラシュートの降下訓練で負傷したために軍隊を除隊になった」という説明がなされている。2005年にアメリカ国内で公表された軍内部の記録によると、「薬物とギターにしか興味を示さない隊内部の劣等兵」で、常に隊の規律を乱して問題視されていた[16]。ヘンドリックスは、早期に軍役を終えて音楽活動に移ろうと、軍隊で忌み嫌われる同性愛者を装う等、故意に問題を起こしていたという説もある。最終階級は三等軍曹

除隊後に本格的な音楽活動を始めるが、当時は無名のバックミュージシャンだった。アイク & ティナ・ターナーアイズレー・ブラザーズなど、数々の有名ミュージシャンのバックでプレイし、全米各地へのツアーにも同行していた。一時期はリトル・リチャードのツアーにバックメンバーで参加した。
ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス結成テレビ番組でのザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの演奏(1967年)

1966年7月、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見いだされ、9月に渡英する。チャンドラーにヘンドリックスの情報をもたらしたのは、キース・リチャーズローリング・ストーンズのギタリスト)の恋人だったリンダ・キースである[17]。当時のヘンドリックスは単なるバックミュージシャンを脱し、自らのバンド「ジミー・ジェームズ・アンド・ザ・ブルー・フレイムズ」[注釈 7]を率いていたが、チャンドラーにスカウトされたのはヘンドリックス1人だけだった。チャンドラーはヘンドリックスの演奏を初めて聴いた際、「ギタリストが3人くらい同時に演奏しているのかと思ったが、実際にはジミ1人だけと知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」と感じたという。チャンドラーに渡英を勧められ、ヘンドリックスはイギリスで自分のようなブルース系ミュージシャンが受け入れられるか不安だったらしく、イギリスの音楽シーンについて多くの質問を投げかけた。そして、自分と同系とみなしていたイギリス人ギタリストのエリック・クラプトンの名を挙げ「会わせてくれるか?」とチャンドラーに尋ねている。チャンドラーは「君の演奏を聴いたら彼(クラプトン)の方から会いに来るよ」と答えている[15]

ロンドンに於いてオーディションを行い、ノエル・レディングベース)、ミッチ・ミッチェルドラムス)と共に「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」を結成。1966年10月から活動を始める。この際に名前をジェームズ/ジミー(James/Jimmy)から、ジミ(Jimi)に変えた。イギリス国内でクラブ出演を重ね、当時ザ・フーのマネージャーだったキット・ランバートとクリス・スタンプが設立したポリドール系の独立レーベルであるトラック・レコードと契約を結んだ[18]


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