ジハード
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

そのようにみるならば、ジハード(聖戦・奮闘努力)は、ムスリムにとって最も重要で基本的な命令ということができる[5]。そのため、ムスリムは外の世界に対し封鎖的な環境をつくらざるを得なくなる。外からの異文化の導入や異質な世界との交流・接触、異なる価値観との対立から「アッラーの道」を守らなくてはならないからである[5]。その結果、イスラーム世界が採用した方法は、周囲に対し、あたかも大きく高いを張り巡らすようなものであった、ということができる[5]。イスラーム世界が今なお中世的な雰囲気を濃厚に有していると指摘されるのもそのためであるが、しかしだからといって、イスラーム世界が外界に対して完全に閉鎖的であるというわけではない[5]。ハディースに「知を求めることはすべてのムスリムの義務である」「中国までも知を求めよ」とあるように、イスラーム世界を発展させるための知識の導入は歓迎されており、イスラーム世界を発展させることもまた、ジハードの目的だからである[5][19]
「外へのジハード」の実際

上述したように、「ジハード」は多義的なことばであり、イスラームの歴史にあってはそれが善用されることもあれば悪用されることもあった[3]

歴史的にみれば、全イスラーム共同体がジハードの意識を高め、異教徒との戦いにあたったのは、初期イスラームの時代のビザンツやペルシアへの侵略戦争であり、ジハード擁護論からした場合の、イスラームを広めるための聖なる戦い、である大征服時代、および中世ヨーロッパのキリスト教世界が、聖地イェルサレム奪回を目的として7回にわたって中東地域に派遣した十字軍との戦いの時代が代表例なものである。

イスラームの拡大しはじめた時期にあっては「アッラーへの道をはずれることなく」、イスラーム教徒にとっての異教徒と戦って死ぬことは殉教とされ、殉教者には天国が約束された[11]。しかし、11世紀末に十字軍がエルサレム王国を建国し、キリスト教徒がパレスチナを占領したころにはジハードの理想はついえており、各所より散発的に、イスラームの君主たちの無気力を批判する声があがった[11]。法学者のアッ=スラミーが聖戦を個人に課せられた義務であると主張して、これを呼びかけたのは、このときであった。この呼びかけに応えたのは当初はザンギー朝、その後はムスリムの英雄サラーフッディーン(サラディン)がこれに応えた[11]

第一次世界大戦の際には、同盟国側に立ったオスマン帝国が「ジハード」宣言を発しているが、しかし、ここではインドのムスリムの対英協力やアラブ人の反乱を食い止めることができなかった。とはいえ、一方では、19世紀以降、いわばイスラーム世界の「辺境」にあたる西アフリカマグリブスーダン、インドや東南アジアの地で「ジハード」が呼びかけられ、植民地主義と帝国主義に対する抵抗が繰り広げられたのも事実である。20世紀後半には、ユダヤ教の国イスラエルの拡大と戦うパレスティナハマースやソヴィエト連邦の侵攻と戦うアフガニスタンのムジャーヒディーン運動が盛り上がるが、これらの根底には近代ムスリムの抵抗思想(「防衛ジハード」の思想)と同様の性格を見出すことができる。

このように、イスラーム的伝統のなかでジハードが重要な役割を果たしてきたのは事実であるが、近年では、イスラーム教の改革を推進するジハードに参加することは、真のイスラーム教徒のすべてにとって神聖な義務だと主張する人びともいる[3]。このような立場に立って現代イスラーム社会とその周辺を見わたすと、そこには、腐敗した権威主義的政権が支配する世界や、みずからの経済的な成功・繁栄のみに関心が集中し、欧米社会の文化価値観に染まった一握りのエリートだけが脚光を浴びる世界が立ち現れてくる、少なくとも、そのようにとらえるムスリムは少なくない[3]。そして、欧米諸国が、民衆に対し抑圧的な態度をとるイスラームの政権を支え、地域の人材や天然資源搾取し、イスラーム世界から文化を奪い、ムスリム自身が選んだ政権の下で公正な社会に生きる権利を奪っているように映じるのである[3]「汎イスラーム主義」を唱えて全ムスリムの団結を説いたアフガーニー「脱宗教主義」「イラク民族主義」「イスラームの復興」など主張を二転三転させたイラクのサッダーム・フセイン

イスラーム主義(イスラーム復興主義)に立つ活動家の多くは、ムスリムの力と繁栄をとりもどすには、「正しいイスラームの教え」に回帰することが重要と考えており、また、国家や社会のイスラーム化を強めるために政治改革・社会改革が必要だと考えている[3]。このようなイスラーム回帰の思想は、近代においては、ワッハーブ運動アフガーニーの改革運動を嚆矢としており、のちのサウジアラビア建国や汎アラブ主義の台頭の原動力となった[20]。そして、一握りではあるが、そのなかの暴力的な方向性を是認する一部の過激派は、救世主的な世界観と攻撃性を組み合わせて国内外のイスラーム教を解放するためのジハードを呼びかけ、「神の軍隊」の創設を主張し、軍事的な動員をおこなっている[3][20]。上述のように、ジハードは、侵略戦争を遂行してゆくために利用すべきものでは決してないが、それでも実際には、一部の支配者や政府、個人はそのようにジハードを利用している[3]。たとえば、1991年湾岸戦争の際のサッダーム・フセイン、アフガニスタンのターリバーン、また、ウサマ・ビンラーディンおよびアルカーイダなどがそれに相当する[3]

なお、古典的なシャリーアでは、ムスリムであってもイスラームの教えから逸脱する信条を抱くようになった者は不信心者(カーフィル)と呼ばれ、「戦争の家」に住む異教徒以上の悪であり、すみやかにジハードによって打倒されなくてはならないと規定している。16世紀から17世紀にかけて、互いに近接するスンナ派のオスマン帝国(トルコ)とシーア派サファヴィー朝ペルシャ)が領土をめぐって戦争するときは、お互いを「不信心者」と決め付けることによってその戦争を「ジハード」と位置付け、みずからの立場を正当化しようと図り、1980年から1988年までつづいたイラン・イラク戦争においてルーホッラー・ホメイニーを擁するイラン・イスラム共和国が「世俗主義」「脱宗教主義」を標榜するバアス党政権のイラクに対して激しい敵意と憎悪を示したのは、このような思想を背景とする。
「外へのジハード」とテロリズム
近年には、政治的動機による戦争やテロリズムを正当化する標語として「ジハード」の語が頻繁に用いられ、本来ジハードの宣言を行う資格のない者がジハードを唱える局面が増えつつある。「脱宗教主義」から「イラク民族主義」へと大きく方向転換したイラクのサッダーム・フセイン大統領は、1990年クウェート占領に反対するアメリカ合衆国など西側諸国に対抗するため「異教徒に対するジハード」を呼号して1991年湾岸戦争へと突入した。この時点ではイスラームに「回帰」したかにみえるフセインであったが、しかし、湾岸戦争後の国内でまず起こったのがイスラーム教シーア派の人びとによる暴動だったのである[21]。「ジハード」を標榜する政治家やテロリストの言葉が、ムスリムの人々の心をある程度は引きつけていることは事実である。これは、アメリカをはじめとする西側諸国がイスラエルに好意的で、パレスティナのムスリムを追いやり、弾圧していることに対する同情や、アフガニスタンやイラクに対する空爆が独裁政権や強権的な政府のみならず、ムスリムの民衆までをも死に追いやっていることに対する悲憤がある。被侵略者・被抑圧者としての怒りを多くのムスリムが共有しているため「いまこそがイスラーム共同体を防衛するためジハードを行うべきときである」という言葉に多かれ少なかれ共感をいだくのである。しかし、インドネシアタイフィリピン、スーダンではイスラームの勢力拡大や非ムスリム弾圧、その他ムスリム社会の一部の権益擁護拡大のために利用できる場合に「ジハード」という言葉をテロリズムや武力闘争の正当化に利用している組織や政府がある。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:96 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef