ジギスムント_(神聖ローマ皇帝)
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異母兄ヴェンツェルと同様ドイツ語チェコ語のバイリンガルとして育ち、後にフランス語ラテン語ハンガリー語イタリア語スラヴ語(おそらくポーランド語)を学んだ[2]。ヴェンツェルが1378年にボヘミア王位を継ぐと、次男であるジギスムントは兄からブランデンブルク辺境伯を継いだ[2]。1379年9月にはカール4世とハンガリー王ポーランド王ラヨシュ1世の間で、ラヨシュ1世の娘マーリアとジギスムントの結婚が合意されたが、マーリアの母エルジェーベトの反対もあって中々実現されなかった[2]
ハンガリー王位継承争い女王マーリア

アンジュー家出身のラヨシュ1世は東欧に「大アンジュー帝国」とも呼ぶべき一大勢力を築いたが、男子に恵まれず2人の娘を残して1382年に没した。ラヨシュ1世は遺言で、次女マーリアを、ルクセンブルク家出身で神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の息子の一人であるジギスムントと結婚させ、両王国の共同統治者とするものとしていた。これに対してポーランド貴族(シュラフタ)は、マーリアの妹で三女のヘドヴィグ(ヤドヴィガ)を女王に推戴して同君連合を解消する。ルクセンブルク家はポーランドの宿敵であるドイツ騎士団の支援者だったからである。その後ヤドヴィガが1386年にリトアニア大公ヴワディスワフ2世と結婚し[2]、ハンガリーとの同君連合の道は完全に断たれた。

ハンガリーでも王位継承を巡って混乱が起きていた。始めにラヨシュ1世の死後ハンガリー王位はマーリアが継承し、彼女の母エリザベタはマーリアとフランスのオルレアン公ルイ1世との婚姻を企てたが、これに対して反乱が起こった。ジギスムントはこれに乗じて、ブランデンブルク辺境伯領を担保にしてハンガリーへと派兵して反乱を鎮圧し[6]、エリザベタの反対を押し切って1385年9月末、オーフェンでマーリアと結婚した[7]。しかしこの結婚式に賛成したハンガリー貴族はラツクフィ家などごくわずかで、大部分の大貴族(マグナート、代表的なのがハンガリー南部を支配するガライ家とホルヴァティ家)は反対していた。特にホルヴァティ家は、アンジュー家の同族であるナポリ王カルロ3世に王位に就くよう要請し、カルロもこれに応える形で軍を率いてハンガリーに侵攻し、ハンガリー王カーロイ2世として即位する。カーロイ2世の簒奪に対し、ジギスムント側に寝返った副王ガライ・ミクローシュとマーリアの母エルジェーベトは共闘して1386年2月7日に[8]カーロイ2世を殺害した。ホルヴァティ家は新たにカーロイ2世の遺児、ナポリ王ラディズラーオを新たな王に立てようとし、さらには和平に赴いたマーリアの一行を襲った。結果、ガライは殺され、エルジェーベトは獄死し、マーリアは幽閉された。

後にガライ家とホルヴァティ家は和解し、マーリアも釈放されたが、その代償としてジギスムントは大貴族と同盟して統治する義務を課せられ、これが破られた場合に大貴族が武力を行使することさえ認めさせられた(公式的同盟)。しかも、内戦中にハーリチをポーランドに奪取された。このような犠牲を払いながらも、1387年3月31日に[8]ジギスムントも晴れてハンガリー王として即位した[9][10]。ただし、ナポリ王家との抗争は後々まで尾を引くことになる。

1388年、派兵の担保としていたブランデンブルクはヨープストへと渡された[8]
ニコポリス十字軍ニコポリスの戦い「ニコポリスの戦い」も参照

ハンガリー王になったジギスムントの課題は、バルカン半島で膨張著しいオスマン帝国への対策であった。オスマン帝国のハンガリーへの侵入はラヨシュ1世の頃から始まっていたが(ラヨシュは1375年にオスマン軍を撃破していた)、1389年に即位したバヤズィト1世の下で勢いを増していた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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