ジェームズ1世_(イングランド王)
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ダーンリー卿は生得の権利として有力な王位継承権を持っていたが、これは父方の曾祖母エリザベス・ハミルトン(Elizabeth Hamilton)がジェームズ2世の外孫であったことによる。

またジェームズは有力なイングランド王位継承権者でもあったが、これは母方の祖父ジェームズ5世ヘンリー8世の姉(エリザベス1世の伯母)マーガレット・テューダーの息子であったことによる。さらに、マーガレット・テューダーはダーンリー卿の母方の祖母でもあった[3][4]
スコットランド時代
幼少での即位、相次ぐ摂政の死と誘拐1586年頃のジェームズ

1567年2月10日、ジェームズが1歳の誕生日を迎える以前に、父ダーンリー卿は不審な死を遂げ、母メアリーとは引き離された。母は父の殺害事件の首謀者と疑われた第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと同年5月15日に再々婚したことでスコットランド貴族の怒りを買い、7月24日に母は廃位されボスウェル伯は亡命、ジェームズは5日後の7月29日に1歳1か月でスコットランド王位に就いた。メアリーは翌1568年に再起を図ったが失敗しイングランドへ亡命、以後1587年に処刑されるまでジェームズ6世と会うことはなかった。即位後、メアリー側の勢力とジェームズ6世を擁した勢力との間で、内戦が5年ほどの間続いた(メアリアン内戦(英語版))。この内戦は1573年にイングランドがスコットランドへ援軍を派遣して介入、メアリー派が籠城するエディンバラ城をジェームズ6世派が落とし残党を処刑することによって終息した[5][6][7][8][9]

ジェームズ6世の即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることはなかった。最初の摂政はメアリーの庶出の兄で王の母方の伯父に当たる初代マリ伯爵ジェームズ・ステュアートであったが、1570年にメアリーの支持者によって暗殺された。次いで、ダーンリー卿の父で王の父方の祖父に当たるレノックス伯(英語版)マシュー・ステュアートが摂政となったが、この祖父も1571年に国内の紛争で殺害された。マリ伯の母方の伯父で3人目の摂政となったマー伯爵ジョン・アースキン1572年に死去し、王の祖母マーガレット・ダグラスの従弟に当たるモートン伯爵ジェイムズ・ダグラスが最後に摂政となった[7][10][11][12]

1570年にマリ伯が暗殺された後頃から、ジェームズ6世の家庭教師としてジョージ・ブキャナン(英語版)とピーター・ヤング(英語版)がついている。政治に携わり、1578年頃までジェームズ6世のもとにいたと言われるブキャナンは、ヨーロッパで広まっていた王権神授説でなく、国王は人民から選ばれた存在とみなして、人民を王権の由来とする考えに基づく制限された世俗的王権論を教えようとしたとも言われている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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