父方の曽祖父は17世紀半ばにスコットランドからアメリカに移民して来ていた[2]。そのアンドリュー・モンロー少佐(? - 1688年)は、古代スコットランド高地一族の長である第14代ファウルズ男爵ロバート・モンローの子孫だった[2]。1650年、アンドリュー・モンローはウェストモーランド郡ワシントン教区に広大な土地の特許を得た[3][4]。 モンローは11歳から16歳までワシントン教区のアーチボルド・キャンベル牧師が運営するキャンベルタウン・アカデミーで学んだ。ここでは並外れた生徒として秀でており、ラテン語や数学など同じ年の少年達よりも速い速度で習い覚えた。級友の中には後に合衆国最高裁判所長官になったジョン・マーシャルがいた。16歳でウィリアム・アンド・メアリー大学に入学した。しかし1774年のウィリアムズバーグ・キャンパスの雰囲気は勉強どころではなくなり、イギリス王ジョージ3世に対する反乱の機運がモンローを含む学生達の大半に蔓延し愛国心で包んだ。レキシントン・コンコードの戦いが起こった後の1775年6月、モンローは24人の年長者達に加わって総督宮殿の武器庫を襲った。このとき奪った200挺のマスケット銃と300振りの剣でウィリアムズバーグの民兵隊を武装させることができた。翌年春モンローは大学を辞めて大陸軍に入隊した。その後学位を得るために大学に戻ることは無かった。1780年から1783年までトーマス・ジェファーソンについて法律を勉強した[5]。 モンローはアメリカ独立戦争で実際に戦ったことでは最後の大統領であり、トレントンの戦いで功績を挙げたが、このとき左肩を負傷した。この傷の治療のためにペンシルベニアのバックス郡で3か月を過ごした。エマヌエル・ロイツェが描いた有名な絵画「デラウェア川を渡るワシントン」では、ワシントン将軍の後ろに立って旗を持っているのが、ジェームズ・モンロー中尉である。またジョン・トランブル描く「トレントンの戦い」では、モンローが中央左に負傷して横たわっているのを見ることができる。 戦後はバージニア州フレデリックスバーグで法律を勉強した[6][7]。 モンローは1786年2月16日にニューヨーク市で、エリザベス・コートライト(1768年 - 1830年)と結婚した。エリザベスはローレンスとハンナ・アスピンウォールのコートライト夫妻の娘だった。ロングアイランドで短時日のハネムーンを過ごした後に、妻の父と一緒に住むためにニューヨーク市に戻った。モンロー夫妻には次の子供達が生まれた。 モンローは若いころの夢だった大きなプランテーションの所有者になり、政治的な力を行使するということを満たしたが、農業経営の方はあまり利益にならなかった。1783年にはバージニアで相続していた小さなプランテーションを売却して政治の世界に入った。ただし土地と奴隷を所有しており、土地に投機もしたが、そこを訪れて監督することはめったになかった。このために奴隷達は生産性を上げるために酷使されており、プランテーションはあるとしてもほとんど金にはならなかった。モンローの贅沢な暮らしぶりのために負債のかたに資産を売ることも多かった[8]。 モンローは1782年にバージニア下院議員に選出され、1783年から1786年まで連合会議代議員を務めた。 バージニア州では各州に提案された新しいアメリカ合衆国憲法の批准を巡って1788年に闘争が起き、連邦党と反連邦党との間の単純な衝突以上のものになった。バージニア人は中央政府について憲法で提案された変更の長所に関してはあらゆる種類の意見を持っていた。ジョージ・ワシントンとジェームズ・マディソンが憲法支持側の指導者であり、パトリック・ヘンリーとジョージ・メイソンが反対側の指導者だった。批准問題の中心人物は理論闘争において中間に位置した者達だった。モンローやエドモンド・ペンドルトンに指導されたこれら「修正を求めた連邦主義者達」は権利章典が無いことを批判し、中央政府の課税権に屈服することを気にした。バージニア州は1788年6月に憲法を批准したが、これはこれらの人々がその要求を保留し、新政府ができた後に改訂を求めていくことを明言したことが大きかった[9]。
教育
家族
エリザ・モンロー・ヘイ(1786年 - 1835年)、1808年にジョージ・ヘイと結婚、ホワイトハウスでは病気療養中の母の代役を務めた。
ジェイムズ・スペンス・モンロー(1799年 - 1801年)
マリア・ヘスター・モンロ・ガバヌーア(1803年 - 1850年)、1820年3月8日にふた従兄弟のサミュエル・L・ガバヌーアと結婚、ホワイトハウスで行われた初めての結婚式だった。
モンローの生地を示す標識
政治
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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