ジェームズ・ボンド
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プロダクションの設立後、サルツマンとブロッコリの二人はハリウッドの大手映画会社ユナイテッド・アーティスツ(以下UA)と契約を交わすべく渡米[注釈 6]ニューヨークでUAの社長であったアーサー・B・クリム(英語版)と面会し、映画化を打診した。当時UAの社長秘書でフレミングの原作の大ファンでもあったデヴィッド・V・ピッカー(英語版)の後押しも受け、UAの出資が決定した[注釈 7][7]。この際UAはイオン・プロに対し、全面的な融資を行うこと、そして、最低でも7本のボンド映画の製作・配給を行うという条件で契約を交わし、遂に007の映画化プロジェクトが本格的に始動した。

当初イオン・プロは、第1作目に『サンダーボール作戦』を映画化しようとしていたものの、UAは権利関係の問題や予算の都合を上げ、却下された。その結果SF色の強い『ドクター・ノオ』が選ばれた。監督に関しては、当初イオン・プロはアメリカ人監督を推していたものの、UAは、作品の内容から判断し、イギリス人監督を推奨。その後、職人肌で、戦時中は諜報活動に従事していたテレンス・ヤングを監督に当てて、ボンド映画第1作目『007/ドクター・ノオ』が映画化された(1962年公開。邦題は『007は殺しの番号』)。この映画は100万ドルという低予算作品ながらも、興行収入は5900万ドルと予想以上の大ヒットとなった。主役のショーン・コネリーはこの1作で成功、ボンドは彼の当たり役となった。モンティ・ノーマン作曲、ジョン・バリー編曲、演奏の「ジェームズ・ボンドのテーマ」も大好評で、以後の作品のオープニングで、ボンドを狙う銃口が逆に撃たれて血を流すシーン(ガンバレル・シークエンス)と共に必ず流されるようになった。

この作品のヒットに影響され、1960年代中期には「007もどき」のB級スパイ映画が世界各国で濫造されたが、一つとして007を超える成功を収めたものはなかった。

『ドクター・ノオ』以後、イオン・プロによって制作される007映画は、主演俳優を幾度か変えつつも、現在に至るまで人気シリーズとして存続している。

1970年代初期以降の作品は、フレミングの小説から題名のみを借りたシナリオライターによるオリジナルストーリーで、原作とほとんど無関係となっている。その内容は、派手な設定とグラマラスな美女、大物俳優のゲスト出演をセットとした、エンターテインメントの王道とも言うべきもので、設定は全般に様式的なものとなっている。1990年代の作品からは映画オリジナル作品が主流となり、2008年公開の『慰めの報酬』でフレミングの小説は完全に枯渇している。
ブロッコリとサルツマンの反目

アルバート・ブロッコリとハリー・サルツマンは、1970年代初期まで共同プロデューサーを務めていたが、ブロッコリの娯楽路線に、原作派で文芸趣味のあるサルツマンは次第に反発するようになる。レン・デイトンが007へのアンチテーゼとして執筆した難解なスパイ小説『イプクレス・ファイル』をマイケル・ケイン主演で『国際諜報局』(1965年、シドニー・J・フューリー監督)として映画化させたのは、他ならぬサルツマンだった。

サルツマンの意見を元に製作され、リアリティやロマンチシズムへの傾倒があった『女王陛下の007』の興行成績が芳しくなかった一方、続いてブロッコリの意見を元に製作された荒唐無稽で派手なストーリーの『ダイヤモンドは永遠に』の興行成績が良かったことから、ブロッコリが主導権を握るようになった。

結局、1975年にサルツマンはイオン・プロから離脱。それ以降、イオン・プロとその親会社であるダンジャックはアルバート・ブロッコリとその一族が支配することになる。因みに、サルツマンの持株はブロッコリに無断でUAへと売却され、UAはイオン・プロの大株主となった。しかし、そのUAも『天国の門』(1980年、マイケル・チミノ監督)の大失敗により経営危機に陥り、1981年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(以下MGM)に吸収合併された。その為、13作目『オクトパシー』からはMGMも製作に加わり、それに伴い北米以外での配給は新たにユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ(UIP)が担当することになった。
『カジノ・ロワイヤル』

小説のシリーズ第1作『カジノ・ロワイヤル』と第3作『ムーンレイカー』[注釈 8]だけは、権利関係の錯綜からイオン・プロは権利を押さえることができなかった。

この作品はコロンビア ピクチャーズが制作権を得て、ジョン・ヒューストンら5人の監督によって共同で映画化された(1967年公開『007/カジノ・ロワイヤル』)。実際にはさらに多数の監督が関わっているとも言われ、製作過程は混乱の上の混乱を極めた。デヴィッド・ニーヴンピーター・セラーズら実力派の名優を総動員しながら、結果としては原作から別次元に乖離した奇想天外なドタバタパロディ作品として作られており、最初から最後までギャグとジョークと人を食った展開が連発されるナンセンスものの怪作である。

現在では、1960年代中期のポップ・カルチャーの影響を色濃く残すユニークな映画としてカルト的評価を受けており、のちのヒット映画『オースティン・パワーズ』シリーズにも強い影響を与えている。本来の映画007シリーズとは異なった層の評価の高い作品である。
『ネバーセイ・ネバーアゲイン』

1982年に、007映画から離れていたショーン・コネリー主演、ワーナー・ブラザース提供で『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(アーヴィン・カーシュナー監督)が制作された。タイトルは、コネリーの妻が再び007のオファーを受け、迷っていた夫に言った言葉「もうやらないなんて、そんなこと言わないで(ネバーセイ・ネバーアゲイン)もう一度おやりなさいな」からつけられた。

これは1961年にフレミングが書いた『サンダーボール作戦』(1965年にイオン・プロのシリーズ第4作としてテレンス・ヤング監督、コネリー主演で映画化)の、イオン・プロから離れた形での再映画化である。この作品も権利関係の混乱による産物であり、以後、イオン・プロ以外で007映画は制作されていない(上記のような理由から、007映画にはおなじみのオープニングテーマと、オープニングでボンドを狙う銃口から逆に撃たれて血を流すシーン(ガンバレル・シークエンス)は使用されていない[注釈 9]。)。

1999年に『ネバーセイ・ネバーアゲイン』のプロデューサーとソニー・ピクチャーズが組んで、イオン・プロとは無関係の新007シリーズを製作すると発表した。ダンジャックとMGMはこれに反発し、事態は法廷闘争に持ちこまれた。最終的にMGMは所有していた『スパイダーマン』の権利を手放す代わりに、ソニー・ピクチャーズが所有していた『カジノロワイヤル』、『ネバーセイ・ネバーアゲイン』の諸権利を所有する事で両者は和解に至り、ソニー・ピクチャーズは新007の製作を断念した。ところが2005年、経営難に陥ったMGMをソニーを始めとする投資家グループ(コンソーシアム)が買収した。これによりソニー・ピクチャーズは本家「007」映画に携わる権利を得ることとなった。
メイン・タイトル

映画シリーズはタイトル・デザインの面白さでも知られる。タイポグラフィ(字体)が変幻自在なソール・バスカイル・クーパーとは異なる独自のスタイルが今日まで一貫している。

第1作『ドクター・ノオ』ではスタンリー・ドーネン作品で知られていたモーリス・ビンダーを招聘した幾何学パターンを用いたアニメーション作品。第2 - 3作ではロバート・ブラウンジョン(英語版)が女性の身体に文字や作品のワンシーンが投射されるという奇抜な映像を提供し、女性をモチーフにしたスタイルが確立された(ブラウンジョンはタイトル・デザイナーとしては寡作で、007シリーズ2作の他には『スパイがいっぱい(英語版)』(1965年)と『将軍たちの夜』(1967年)があるだけである)。

第4作『サンダーボール作戦』からはビンダーが再び担当し、女性のシルエットを多用したスタイルが続くが、1991年にビンダーが亡くなり、『ゴールデンアイ』以降はビンダーの助手で1980年代からマドンナヴァン・ヘイレンのミュージック・ビデオを多数手がけているダニエル・クラインマン(英語版)が、デジタル合成を駆使しつつビンダー/ブラウンジョンのスタイルを受け継いだ。
音楽

イオン・プロの007シリーズは、モンティ・ノーマン(英語版)作曲による「ジェームズ・ボンドのテーマ」と、初期?中期の音楽監督ジョン・バリーのオーケストレーションが、007サウンドの基本スタイルを作り上げた。


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